数分で読める小話を置いてます。 暇潰しにはなるかもしれません。
「じゃあお姉ちゃん、行ってきます」
「はい、行ってらっしゃい」
経観塚の件が終わり、あの子のおかげで、今わたしは桂ちゃんと一緒に暮らしている。
当時は騒ぎになり、テレビや新聞の取材がやってきて大変だったけど、最近はだいぶ落ちついた。
桂ちゃんを送り出した後、洗い物を済ませ勉強を始める。
あまりにも離れていた「人」の世界。 そこで暮らしていく事は幸せだけではないから。
だけどやはり、わたしは幸せなのだと思う。 傍らには桂ちゃんがいて、頻繁にサクヤさんも来ていろいろ教えてくれる。
…そう、幸せ。
だからわたしもがんばって、今に順応しなければならないと思う。
ーーー
ドンドン、と扉を叩く音。
「柚明ー、いるかいー?」
「もう、サクヤさん。 戸を叩くのはやめてください」
「すまないね。 でもわかりやすくていいじゃないか」
「ご近所の迷惑になります」
すると、サクヤさんはニヤリとして
「わかってきたじゃないか」
なんて軽口を言う。
「こんなこと、わたしが『柱』になる前からの常識です」
「さいですか」
「どうぞ」
いつものように軽口を交わし、部屋へ誘う。
「すぐお茶を入れますね」
「すまないね」
腰を下ろしたサクヤさんが、テーブルの上の本に目を止める。
「ああ、勉強中だったかい。 悪かったね」
「気にしないでください。 本よりサクヤさんのお話の方が勉強になりますから」
実際言葉通りで、古い新聞や本を読んだりするよりも、サクヤさんの話の方が学ぶ事は多い。
「そうかい? まあ教えるなんて、ガラじゃないけどさ」
「ウフフ」
ーーー
「ふう」
「5回目」
「え?」
「さっきからため息が5回目だよ。 どうしたんだい、疲れたかい?」
気がつかなかった。 自分がため息をついていたなんて。
「い、いえ。 そういう訳では…」
「なんか悩みかい?」
悩み…。 そう、悩みはある。 けれど誰にも口にする事はできない悩み。
「悩みなんて無いですよ。 幸せですから」
チクリと胸が痛む。 幸せ、なのに…。
ーーー
しばらく後にサクヤさんは仕事のため帰り、わたしは一人勉強を続ける。
外に子供の声を聞き、ふと時計を見ると夕方近かった。
「そろそろお夕飯の支度しなくちゃ」
机を片付け、かばんを持って外へ出る。 冷たくなり始めた秋風が髪をなびく。
「今日は暖かいものがいいかしら」
ゆっくりと商店街へと向かう。
何か考え事をしているはずなのに、何を考えていたのかわからない、思い出せない。
気がつけば立ち止まっている。 そして、またゆっくりと歩き出す。
…悩み。 それはつまらないこと。 そう、つまらないこと、なのに。
「あなた大丈夫?」
八百屋のおばさんが顔を覗きこんでいた。 いけない、またぼんやりとして。
「あ、大丈夫です。 すいません」
「でもほら、目」
言われて目に手をやると濡れている。 …気がつかなかった、自分が涙を流していたなんて。
「ちょっとゴミが入ってしまったみたいで」
ごまかして足早に立ち去る。
…バカみたい。 こんなことではいけない。 みんなに心配かけて、迷惑かけて。 こんなことではいけない…。
ーーー
「ただいま」
「あ、お帰り、お姉ちゃん」
「寒くなってきたわね」
「そうだねー。 あ、わたし手伝うよ」
ぱたぱたと桂ちゃんが近寄ってくる。
「ウフフ、ありがとう。 でも大丈夫よ」
「でも…」
「…そうね。 少しずつ桂ちゃんにもお料理を教えなくちゃね」
「うんっ」
ーーー
「…すー…すー…」
隣では桂ちゃんが寝ている。 わたしはと言うと、真弓さんの服を仕立て直している。 桂ちゃんは「お姉ちゃんの着たい物を買ってきて」と言ってくれたけど、少し寸法を整えれば着る事ができる服があるのだから、もったいない。 現状真弓さんの遺産で暮らしているのだから、無駄は抑えたい。
それになにより、わたしが着たかった。 わたしにとっても真弓さんは大切な人だったから。
「…すー…すー…」
桂ちゃんを見る。 安らかに眠る顔を眺めて思う。 わたしは幸せなのだ、と。
そっと髪に触れる。
「ん…」
少し前までは寝ながら泣いてたりもしたが、最近はあまり無い。 夢の中で真弓さんに会わなくなったのか、泣かずに会えるようになったのか。
桂ちゃんを見る。 …わたしは、幸せ…。
「お姉ちゃん…」
どくん。
鼓動が鳴る。 胸が痛む。
経観塚の間はわたしは「ユメイさん」だった。 少し他人行儀ではあるけれど、桂ちゃんと近くに感じられた。
今は「お姉ちゃん」。 前より近くにいるはずなのに、なぜか遠くなったように感じてしまう。
くだらなく、つまらないことだと自分でも思う。 桂ちゃんの近くにいられることは幸せで、また従姉のわたしは確かに「お姉ちゃん」だとも思う。
だけど…だけどっ。 愚かしいとは思うけれど、名前を呼んで欲しい。 大切な人だから、愛しい人だから、名前で呼ばれたい。
そんな、つまらない悩み。 誰にも言えない哀しい悩み。
手を止めて裁縫道具を片付ける。 明かりを消して、桂ちゃんの隣の布団に入る。
悩みを胸の奥へと押し込み、布団の中で桂ちゃんの手をやわらかく握る。
わたしは、今、幸せ。
幸せを噛み締めて、悩みを忘却の彼方へと飛ばす。 すぐには無理だけど、きっとそうしてみせる。 何よりも大切なあなたのために。
手から伝わる温もりに誓いを立て、「明日」へと心を向ける。
だから…だから今、この時は、泣かせてください。
布団を頭までかぶり、わたしはそっと涙を流した。
(終)
「雪…」
サクヤさんの呟いた声で窓の外を見る。 寒い寒いと思っていたら、ちらほらと雪が舞っていた。
「わあ、初雪だね」
なんか得したような気分で笑顔を浮かべサクヤさんを見ると、遠くを見るような目で呟いた。
「雪は…」
幼い頃に父を亡くし少し前に母を亡くした天外孤独の私、羽藤桂は母の親友であまつさえ祖母とも親交のあった浅間サクヤさんの助力で相続を片付けていた。 ちょうど夏休みに入っていたこともあり、相続権のある父の実家へと経観塚を訪れ、私が知らないでいたたくさんのことを知ることになった。
およそ人に話しても理解できないであろう、私の現実。 「鬼」、「贄の血」、「忘れていた過去の一部」…他でもないサクヤさん自身「鬼」と呼ばれる存在であったのだ。 比喩で鬼ではなく、存在が「鬼」
古の鬼神「主」との壮絶なる戦いの果て、数多の時を生きるサクヤさんと刹那の日々であろうとも過ごしていく日々を私は選んだ。 その初めての冬。
「サクヤ、さん…?」
「…あ? あ、ああ、なんだい桂? 何か言ったかい?」
「今何を言おうとしたの?」
何のことを言われたのだかわからない、と言った顔を浮かべるサクヤさん。 どうやら無意識の呟きだったのかもしれない。 だけど私にはその続きはなんとなくわかる気がする。
あの夏に私はサクヤさんの過去を見た。 私の血を吸ったサクヤさんと私の意識が混ざり合ったのかどうか、正確なところはわからないけれど、サクヤさんの悲しい「時」を私は見た。
「…お婆ちゃんと会った時のことなのかな?」
「っ!」
日本人離れしたサクヤさんの綺麗な顔が歪む。
「人」に裏切られ「鬼」であるサクヤさんは仲間を失い自身も体も心も傷ついて死を迎えようとしていた。 雪に埋もれ冷たくなる身に温もりが与えられた。 それが遥か昔にサクヤさんが慕っていた長者様の娘さんの面影を残す縁者、お婆ちゃんとの出会い。
「そう…なのかも、ね…。 あたしは何考えてたか自分でわからないけども………雪は、嫌い、かな…」
「なんで?」
「なんで、って…。 桂…あんたはあたしの過去を見たんだろう? まあそりゃ見たと経験したじゃ違うだろうけども…」
頭をかきながら私の方に向き直りあぐらをかく。 傍目にはモデルのような美人なのに、どうもおじさんくさいのがもったいない。
「違うよ、お婆ちゃんと会ったのは嫌な思い出なの?」
「…ああ…笑子さん…。 そう…そうだね、桂。 あたしが間違ってたか…」
瞳を潤ませ虚空を見る。 その目はお婆ちゃんを映しているのだろう。
「…って、そうは言うけどね、桂っ。 あたしはあん時死にかけで仲間も何もかも失ってんだよ、笑子さんとの出会いだけでチャラになんかできるわけないさねっ」
「…ああ、それもそうだよね。 ごめんね、サクヤさん」
私の方が間違っていた。 悲しいことの方が記憶には残るものなのだ。
「私にはそういう出会い、ってなかったから…。 だから大切な人と出会えたことが嬉しいかな、って思っちゃったんだね…」
申し訳ない気分になる。 そう思ったら外を舞う雪が悲しいものに見えてきた。
すると、いつの間にか近くに寄っていたサクヤさんの手が私の頭に乗せられる。
「いや。 桂は悪くないよ。 確かに難しいけどそういうことなんだよ、本当は」
「え?」
「悲しい思い出を嬉しい思い出で消してしまえばいいのさ。 思い出を幸せに塗り替えて…」
けれどそう言って外を見るサクヤさんの顔はまだ憂いていて。 だから私は、
「外行こうっ、サクヤさんっ」
乗せられた手を取って立ち上がる。
「桂?」
「夕食のお買い物もあるし、一緒に行こうっ」
「あ、ああ…。 待ちな、今クロカンの準備するから…」
「ううん、歩いて。 歩いて一緒に行こうっ」
小さくよっこらせなんて呟いて立ち上がるサクヤさんの手を持ったまま、私は力説する。
「はあ? 雪も降ってる中荷物抱えて歩くってのかい? 桂は。 今更雪が楽しい年でもないだろうに…」
コートを片手にし、まだ離さない私の手を上下に振る。 ちょっと強めのサクヤさんの手の振りにがくんがくんと首を揺らされたが、私は手を離さず言った。
「雪を…楽しい思い出にしよう、サクヤさんっ」
「桂…」
コートを羽織二人外へ出る。 ちらほらと舞う雪の中、傘もささず二人手を繋いで歩き出す。
微笑を浮かべ、お互いを見つめまた笑う。
「帰る頃に大雪になってたらどうするかねえ…」
「二人とも雪だるまになって帰ればいいよっ」
「はっ。 その発想が桂らしいよ」
雪を歩く私たち。 ともに歩ける時間はサクヤさんにとって刹那の時かもしれない。 だけど、だからこそ刹那を無限に変えるほどの時を。
「ああ、でも桂は雪だるまにはなれないかねえ」
「どうして?」
胸元を覗き込み唇の端を上げて笑う。
「その胸じゃ雪が滑り落ちていくってもんさね」
「そっ! そりゃサクヤさんに比べたらの話でしょーっ! そ、それに本当に雪だるまになんかなるわけないじゃないっ」
「自分で言ったことじゃないさ、あははは」
笑顔で。 笑顔を残して。 幸せな時間を過ごして。
「お、お母さんはそれなりだったもんっ。 わ、私だって…」
「ふふふ、そうだね。 桂もまだまだこれからさね」
会えて幸せだったことを精一杯、あなたに届けたい。 いつか別れが訪れるとしても。
あなたといる時間は私の幸せな時間だと。
(終)
サクヤさんの呟いた声で窓の外を見る。 寒い寒いと思っていたら、ちらほらと雪が舞っていた。
「わあ、初雪だね」
なんか得したような気分で笑顔を浮かべサクヤさんを見ると、遠くを見るような目で呟いた。
「雪は…」
幼い頃に父を亡くし少し前に母を亡くした天外孤独の私、羽藤桂は母の親友であまつさえ祖母とも親交のあった浅間サクヤさんの助力で相続を片付けていた。 ちょうど夏休みに入っていたこともあり、相続権のある父の実家へと経観塚を訪れ、私が知らないでいたたくさんのことを知ることになった。
およそ人に話しても理解できないであろう、私の現実。 「鬼」、「贄の血」、「忘れていた過去の一部」…他でもないサクヤさん自身「鬼」と呼ばれる存在であったのだ。 比喩で鬼ではなく、存在が「鬼」
古の鬼神「主」との壮絶なる戦いの果て、数多の時を生きるサクヤさんと刹那の日々であろうとも過ごしていく日々を私は選んだ。 その初めての冬。
「サクヤ、さん…?」
「…あ? あ、ああ、なんだい桂? 何か言ったかい?」
「今何を言おうとしたの?」
何のことを言われたのだかわからない、と言った顔を浮かべるサクヤさん。 どうやら無意識の呟きだったのかもしれない。 だけど私にはその続きはなんとなくわかる気がする。
あの夏に私はサクヤさんの過去を見た。 私の血を吸ったサクヤさんと私の意識が混ざり合ったのかどうか、正確なところはわからないけれど、サクヤさんの悲しい「時」を私は見た。
「…お婆ちゃんと会った時のことなのかな?」
「っ!」
日本人離れしたサクヤさんの綺麗な顔が歪む。
「人」に裏切られ「鬼」であるサクヤさんは仲間を失い自身も体も心も傷ついて死を迎えようとしていた。 雪に埋もれ冷たくなる身に温もりが与えられた。 それが遥か昔にサクヤさんが慕っていた長者様の娘さんの面影を残す縁者、お婆ちゃんとの出会い。
「そう…なのかも、ね…。 あたしは何考えてたか自分でわからないけども………雪は、嫌い、かな…」
「なんで?」
「なんで、って…。 桂…あんたはあたしの過去を見たんだろう? まあそりゃ見たと経験したじゃ違うだろうけども…」
頭をかきながら私の方に向き直りあぐらをかく。 傍目にはモデルのような美人なのに、どうもおじさんくさいのがもったいない。
「違うよ、お婆ちゃんと会ったのは嫌な思い出なの?」
「…ああ…笑子さん…。 そう…そうだね、桂。 あたしが間違ってたか…」
瞳を潤ませ虚空を見る。 その目はお婆ちゃんを映しているのだろう。
「…って、そうは言うけどね、桂っ。 あたしはあん時死にかけで仲間も何もかも失ってんだよ、笑子さんとの出会いだけでチャラになんかできるわけないさねっ」
「…ああ、それもそうだよね。 ごめんね、サクヤさん」
私の方が間違っていた。 悲しいことの方が記憶には残るものなのだ。
「私にはそういう出会い、ってなかったから…。 だから大切な人と出会えたことが嬉しいかな、って思っちゃったんだね…」
申し訳ない気分になる。 そう思ったら外を舞う雪が悲しいものに見えてきた。
すると、いつの間にか近くに寄っていたサクヤさんの手が私の頭に乗せられる。
「いや。 桂は悪くないよ。 確かに難しいけどそういうことなんだよ、本当は」
「え?」
「悲しい思い出を嬉しい思い出で消してしまえばいいのさ。 思い出を幸せに塗り替えて…」
けれどそう言って外を見るサクヤさんの顔はまだ憂いていて。 だから私は、
「外行こうっ、サクヤさんっ」
乗せられた手を取って立ち上がる。
「桂?」
「夕食のお買い物もあるし、一緒に行こうっ」
「あ、ああ…。 待ちな、今クロカンの準備するから…」
「ううん、歩いて。 歩いて一緒に行こうっ」
小さくよっこらせなんて呟いて立ち上がるサクヤさんの手を持ったまま、私は力説する。
「はあ? 雪も降ってる中荷物抱えて歩くってのかい? 桂は。 今更雪が楽しい年でもないだろうに…」
コートを片手にし、まだ離さない私の手を上下に振る。 ちょっと強めのサクヤさんの手の振りにがくんがくんと首を揺らされたが、私は手を離さず言った。
「雪を…楽しい思い出にしよう、サクヤさんっ」
「桂…」
コートを羽織二人外へ出る。 ちらほらと舞う雪の中、傘もささず二人手を繋いで歩き出す。
微笑を浮かべ、お互いを見つめまた笑う。
「帰る頃に大雪になってたらどうするかねえ…」
「二人とも雪だるまになって帰ればいいよっ」
「はっ。 その発想が桂らしいよ」
雪を歩く私たち。 ともに歩ける時間はサクヤさんにとって刹那の時かもしれない。 だけど、だからこそ刹那を無限に変えるほどの時を。
「ああ、でも桂は雪だるまにはなれないかねえ」
「どうして?」
胸元を覗き込み唇の端を上げて笑う。
「その胸じゃ雪が滑り落ちていくってもんさね」
「そっ! そりゃサクヤさんに比べたらの話でしょーっ! そ、それに本当に雪だるまになんかなるわけないじゃないっ」
「自分で言ったことじゃないさ、あははは」
笑顔で。 笑顔を残して。 幸せな時間を過ごして。
「お、お母さんはそれなりだったもんっ。 わ、私だって…」
「ふふふ、そうだね。 桂もまだまだこれからさね」
会えて幸せだったことを精一杯、あなたに届けたい。 いつか別れが訪れるとしても。
あなたといる時間は私の幸せな時間だと。
(終)
青々とした緑が日の光で輝く季節から茜色へと染まり舞い落ちる季節に、そして冷たい風が吹き始めた頃
「やあ、桂さん。 久しぶり」
あの人はまた来てくれた。
鬼を切ることを生業とした千羽党の鬼切り役、千羽烏月さん。 あの夏の日の約束通りに私のところへ忙しい合間をぬって来てくれる。
いつ見ても長いきれいな黒髪を風に揺らし、それ以上にきれいな顔に優しい笑顔を浮かべて。
近くの喫茶店に入る。 陽子ちゃんとであればハックにでもいくところだけど、烏月さんと一緒に行くには少々騒々しい気がして気が進まなかった。 ちなみにいつもなら一緒に帰る陽子ちゃんは進路相談だそうで。 …でもちょうどよかったかな?
「さすがに寒くなってきたね」
そう言ってコートを脱ぐ烏月さんをじっと見てたら気づかれた。
「どうかしたかい? 桂さん」
「あ、あはは…。 そのコートも裏に書いてあるのかなー? なんて…」
烏月さんはちょっと驚いた顔をした後、くすりと柔らかく笑ってコートをめくる。
「ふふ、書いてあるのはこっちだけだよ。 うかつに人前で脱げないからね」
「あははは。 そうだよね」
「元気そうでよかった」
「うん。 まだもちろん時々つらかったり寂しかったりするけど、陽子ちゃんとかもいるしサクヤさんもよく来てくれるし」
最近のことを一所懸命私は話す。 もちろんそうでない日もあるけれど元気で楽しく過ごしている、と。 それが烏月さんのために私ができることだから。
烏月さんは私の話を微笑みながら聞いてくれる。 と、そこに、
「おおっ!? はとちゃん発見っ!」
「って、陽子ちゃん…。 恥ずかしいからやめてよ…」
喫茶店の窓の外、帰り際の陽子ちゃんが私を見つけて騒いでいた。
「やー、なんか珍しいとこにいるねー、はとちゃんってば。 って、うおっ、烏月さんだっ」
「奈良さんだったかな? こんにちは」
「烏月さん、こんにちは。 ほほぉー、はとちゃんてばこんなとこで逢い引きー?」
「もー、陽子ちゃんてばー…」
すたすたとやってきて私の隣の席に座る。
「はぁー…。 長かったー…」
「進路相談たいへんだったんだ?」
「んー、まあいろいろうるさく言われただけよ。 はとちゃんはこれからでしょ? がんばってねー」
「うーん。 私何も考えてないからなー…。 烏月さんは進路ってどうするの?」
「私は…家業に専念することになるのかどうか、といったところかな。 なんせ家がうるさいからね、自由にはいかないかな」
「うへ、お凛みたいな感じなのかっ。 そらたいへんだわー」
「お凛さんとは違うと思うけど…」
日が陰って来たのでそろそろ、といった感じでお店を出る。 夕暮れからの日の陰りは早く、改めて季節の変わりを感じてしまう。 冷たい風がそっと首元をなでるのに、肩をすくめる。
「そんじゃ私こっちだから。 はとちゃん、浮気はほどほどにしてよねー」
「う、浮気ってっ。 そ、そんなんじゃないよっ」
そもそも浮気ってことは私と陽子ちゃんはどういう関係になるんですか?
「あはは。 じゃ、はとちゃんまた明日ー。 烏月さんもまたー」
「さようなら」
「またね、陽子ちゃん」
「なんかごめんね、陽子ちゃんが…」
「いや。 桂さんが楽しく過ごせてるのがわかって嬉しかったよ」
私の家の方向へ二人で歩き始める。
「そう言えばケイくんはどうしてるのかな?」
「…。 彼なら千羽で鬼切りとしてがんばってくれてるよ。 人手不足なんで助かってるね」
「へー」
「会いたいかい?」
「え? そういうわけじゃないけど…」
なんとなく気になった。 ただそれだけ…だと思う。
「えっと、まだ時間大丈夫なのかな?」
そう聞くと携帯電話を手にとって烏月さんは少し難しい顔を浮かべる。
「ここからの時間が忙しいから約束はできないかな…。 どうなのか少し連絡してみるよ」
『もしもし』
「私だがまだ時間は大丈夫なのだろうか?」
『鬼切り頭からは今夜ひとつ頼まれてる件があるね』
「わかった。 では…」
『いや』
「うん?」
『とりあえず僕が一人で行ってみるよ。 手に負えないようなら連絡する。 それまでは桂と一緒にいてあげてくれないか』
「しかしお前は…」
『わかってる。 役付きではないからね、無理はしないさ。 無理なら連絡する。 凌ぐくらいならできる自信はあるし。 会えない僕の代わりを君にお願いするのは卑怯かい?』
「すまない」
『謝るのも礼を言うのも僕の方さ。 じゃあよろしく』
「えっと…」
「とりあえずは大丈夫そうだ。 桂さんのところにお邪魔してもいいかな?」
「あ、うんっ」
ささやかな仏壇に祈りを捧げ、烏月さんは遺影をじっと見つめている。 その間に私はというと、どうにも狭い家なので、すぐそばでばたばたと着替えていたりする。
「じゃあ少し待っててね」
「うん?」
「私が夕ご飯作るから。 あ、でも、あまり期待しないでね…。 サクヤさんに習ったりしてるけどまだまだだと思うから…」
エプロンをつけながら流しに向かう。 烏月さんは優しく笑って
「ああ。 楽しみにしているよ」
と言ってくれた。
嬉しい時と言うのは往々にして、自分の能力以上のことをしようとしてしまうものです。 素敵な烏月さんのため、と思ったのがむしろいけなかったか、悲しいくらいに現状は悲劇を招いてしまって…。
「桂さん? 鍋は大丈夫かい? 少し焦げ臭い匂いがするけど」
「え? きゃーっ。 お水お水…あ、こっちにこれ入れないと…あああああ」
結局食べられる物は作れたものの、普段よりひどい見た目なものになってしまったわけで。
「うう…ごめんね、烏月さん…」
「いや、桂さんの作った物が食べられるだけでも嬉しいよ」
「味付けおかしかったら言ってね? 焦げてるのは食べなくていいから」
「大丈夫だよ。 少しくらいはかえっておいしかったりするものだよ」
笑いあって食べる。 たまにちょっと眉をしかめるだけで黙って食べようとする烏月さんに声かけたり。 うっかり口の端についたご飯を取ってもらったり…。
…でも楽しい時間にも終わりはある。
聞きなれない音が楽しい時間の終わりを告げる。
「すまない桂さん、電話のようだ」
『…すまない。 ちょっと僕だけでは無理のようだ』
「わかった。 すぐ行く」
『凌ぐのなら当分平気だから慌てることはないけど、来てもらいたい』
「ああ」
「すまない。 鬼が出て手の者では無理のようだ。 また会いに来るよ」
そう言って烏月さんが立ち上がる。
仕方の無いこと、なのはわかってる、だけど…だけど…。 維斗を手に携え玄関に向かう烏月さんに、私は慌ててコートを手に取る。
「烏月さん、コートっ」
「ああ、すまない。 忘れていたよ」
コートは忘れるのに維斗は忘れない烏月さんを見て、やっぱり烏月さんは烏月さんなんだな、と私は少しおかしくなる。
「維斗は忘れないくせに烏月さんってば」
「はは、桂さんの言う通りだ」
受け取ろうとする烏月さんを遮って私はコートを広げる。
「ん、ありがとう、桂さん」
そしてコートを着せると私はその背中にしがみつく。
「桂さん?」
「急いでるのにごめんね、烏月さん…。 でも少しだけ、ほんの少しだけこのままで…」
「…ああ。 私も、そうしたい…」
ほんの少し、だったと思う。 私のために無理をしてくれる烏月さんをあまり困らせてもいけない。
「…ありがとう。 もう、大丈夫っ。 ごめんね、急いでるのに」
「桂さん」
烏月さんが振り返る。 私より背の高い烏月さんがそっと私を抱きしめる。
そして私の額にやわらかな感触を残し、烏月さんが離れる。
「あ…わ…」
見ると烏月さんの顔も赤い。
「お守り、かな?」
「…鬼切り役のお守りだったら安心だね」
「じゃあもっと安心できるようにこれも渡しておくよ」
赤い顔でいたずらっぽく笑い烏月さんはあの夏の日にも渡してくれたお札を取り出す。 私は笑顔を浮かべそれを受け取る。
「いってらっしゃい。 気をつけて」
「いってくるよ。 鬼を切りに。 そしてまた桂さんと会うために」
言葉少ない中に想いをこめて、あなたを見送る。
出て行くあなたの背中を見るのはこれが最後ではない。 次の時はまた先の話だとしても、次はまたある。
だからまた会いましょう。 その優しい笑顔に会いましょう。 それまでにはもっとお料理上手くなるよ。 今度はもっと喜んでもらえるように。
私の好きになった人が喜んでくれるように。
(終)
「やあ、桂さん。 久しぶり」
あの人はまた来てくれた。
鬼を切ることを生業とした千羽党の鬼切り役、千羽烏月さん。 あの夏の日の約束通りに私のところへ忙しい合間をぬって来てくれる。
いつ見ても長いきれいな黒髪を風に揺らし、それ以上にきれいな顔に優しい笑顔を浮かべて。
近くの喫茶店に入る。 陽子ちゃんとであればハックにでもいくところだけど、烏月さんと一緒に行くには少々騒々しい気がして気が進まなかった。 ちなみにいつもなら一緒に帰る陽子ちゃんは進路相談だそうで。 …でもちょうどよかったかな?
「さすがに寒くなってきたね」
そう言ってコートを脱ぐ烏月さんをじっと見てたら気づかれた。
「どうかしたかい? 桂さん」
「あ、あはは…。 そのコートも裏に書いてあるのかなー? なんて…」
烏月さんはちょっと驚いた顔をした後、くすりと柔らかく笑ってコートをめくる。
「ふふ、書いてあるのはこっちだけだよ。 うかつに人前で脱げないからね」
「あははは。 そうだよね」
「元気そうでよかった」
「うん。 まだもちろん時々つらかったり寂しかったりするけど、陽子ちゃんとかもいるしサクヤさんもよく来てくれるし」
最近のことを一所懸命私は話す。 もちろんそうでない日もあるけれど元気で楽しく過ごしている、と。 それが烏月さんのために私ができることだから。
烏月さんは私の話を微笑みながら聞いてくれる。 と、そこに、
「おおっ!? はとちゃん発見っ!」
「って、陽子ちゃん…。 恥ずかしいからやめてよ…」
喫茶店の窓の外、帰り際の陽子ちゃんが私を見つけて騒いでいた。
「やー、なんか珍しいとこにいるねー、はとちゃんってば。 って、うおっ、烏月さんだっ」
「奈良さんだったかな? こんにちは」
「烏月さん、こんにちは。 ほほぉー、はとちゃんてばこんなとこで逢い引きー?」
「もー、陽子ちゃんてばー…」
すたすたとやってきて私の隣の席に座る。
「はぁー…。 長かったー…」
「進路相談たいへんだったんだ?」
「んー、まあいろいろうるさく言われただけよ。 はとちゃんはこれからでしょ? がんばってねー」
「うーん。 私何も考えてないからなー…。 烏月さんは進路ってどうするの?」
「私は…家業に専念することになるのかどうか、といったところかな。 なんせ家がうるさいからね、自由にはいかないかな」
「うへ、お凛みたいな感じなのかっ。 そらたいへんだわー」
「お凛さんとは違うと思うけど…」
日が陰って来たのでそろそろ、といった感じでお店を出る。 夕暮れからの日の陰りは早く、改めて季節の変わりを感じてしまう。 冷たい風がそっと首元をなでるのに、肩をすくめる。
「そんじゃ私こっちだから。 はとちゃん、浮気はほどほどにしてよねー」
「う、浮気ってっ。 そ、そんなんじゃないよっ」
そもそも浮気ってことは私と陽子ちゃんはどういう関係になるんですか?
「あはは。 じゃ、はとちゃんまた明日ー。 烏月さんもまたー」
「さようなら」
「またね、陽子ちゃん」
「なんかごめんね、陽子ちゃんが…」
「いや。 桂さんが楽しく過ごせてるのがわかって嬉しかったよ」
私の家の方向へ二人で歩き始める。
「そう言えばケイくんはどうしてるのかな?」
「…。 彼なら千羽で鬼切りとしてがんばってくれてるよ。 人手不足なんで助かってるね」
「へー」
「会いたいかい?」
「え? そういうわけじゃないけど…」
なんとなく気になった。 ただそれだけ…だと思う。
「えっと、まだ時間大丈夫なのかな?」
そう聞くと携帯電話を手にとって烏月さんは少し難しい顔を浮かべる。
「ここからの時間が忙しいから約束はできないかな…。 どうなのか少し連絡してみるよ」
『もしもし』
「私だがまだ時間は大丈夫なのだろうか?」
『鬼切り頭からは今夜ひとつ頼まれてる件があるね』
「わかった。 では…」
『いや』
「うん?」
『とりあえず僕が一人で行ってみるよ。 手に負えないようなら連絡する。 それまでは桂と一緒にいてあげてくれないか』
「しかしお前は…」
『わかってる。 役付きではないからね、無理はしないさ。 無理なら連絡する。 凌ぐくらいならできる自信はあるし。 会えない僕の代わりを君にお願いするのは卑怯かい?』
「すまない」
『謝るのも礼を言うのも僕の方さ。 じゃあよろしく』
「えっと…」
「とりあえずは大丈夫そうだ。 桂さんのところにお邪魔してもいいかな?」
「あ、うんっ」
ささやかな仏壇に祈りを捧げ、烏月さんは遺影をじっと見つめている。 その間に私はというと、どうにも狭い家なので、すぐそばでばたばたと着替えていたりする。
「じゃあ少し待っててね」
「うん?」
「私が夕ご飯作るから。 あ、でも、あまり期待しないでね…。 サクヤさんに習ったりしてるけどまだまだだと思うから…」
エプロンをつけながら流しに向かう。 烏月さんは優しく笑って
「ああ。 楽しみにしているよ」
と言ってくれた。
嬉しい時と言うのは往々にして、自分の能力以上のことをしようとしてしまうものです。 素敵な烏月さんのため、と思ったのがむしろいけなかったか、悲しいくらいに現状は悲劇を招いてしまって…。
「桂さん? 鍋は大丈夫かい? 少し焦げ臭い匂いがするけど」
「え? きゃーっ。 お水お水…あ、こっちにこれ入れないと…あああああ」
結局食べられる物は作れたものの、普段よりひどい見た目なものになってしまったわけで。
「うう…ごめんね、烏月さん…」
「いや、桂さんの作った物が食べられるだけでも嬉しいよ」
「味付けおかしかったら言ってね? 焦げてるのは食べなくていいから」
「大丈夫だよ。 少しくらいはかえっておいしかったりするものだよ」
笑いあって食べる。 たまにちょっと眉をしかめるだけで黙って食べようとする烏月さんに声かけたり。 うっかり口の端についたご飯を取ってもらったり…。
…でも楽しい時間にも終わりはある。
聞きなれない音が楽しい時間の終わりを告げる。
「すまない桂さん、電話のようだ」
『…すまない。 ちょっと僕だけでは無理のようだ』
「わかった。 すぐ行く」
『凌ぐのなら当分平気だから慌てることはないけど、来てもらいたい』
「ああ」
「すまない。 鬼が出て手の者では無理のようだ。 また会いに来るよ」
そう言って烏月さんが立ち上がる。
仕方の無いこと、なのはわかってる、だけど…だけど…。 維斗を手に携え玄関に向かう烏月さんに、私は慌ててコートを手に取る。
「烏月さん、コートっ」
「ああ、すまない。 忘れていたよ」
コートは忘れるのに維斗は忘れない烏月さんを見て、やっぱり烏月さんは烏月さんなんだな、と私は少しおかしくなる。
「維斗は忘れないくせに烏月さんってば」
「はは、桂さんの言う通りだ」
受け取ろうとする烏月さんを遮って私はコートを広げる。
「ん、ありがとう、桂さん」
そしてコートを着せると私はその背中にしがみつく。
「桂さん?」
「急いでるのにごめんね、烏月さん…。 でも少しだけ、ほんの少しだけこのままで…」
「…ああ。 私も、そうしたい…」
ほんの少し、だったと思う。 私のために無理をしてくれる烏月さんをあまり困らせてもいけない。
「…ありがとう。 もう、大丈夫っ。 ごめんね、急いでるのに」
「桂さん」
烏月さんが振り返る。 私より背の高い烏月さんがそっと私を抱きしめる。
そして私の額にやわらかな感触を残し、烏月さんが離れる。
「あ…わ…」
見ると烏月さんの顔も赤い。
「お守り、かな?」
「…鬼切り役のお守りだったら安心だね」
「じゃあもっと安心できるようにこれも渡しておくよ」
赤い顔でいたずらっぽく笑い烏月さんはあの夏の日にも渡してくれたお札を取り出す。 私は笑顔を浮かべそれを受け取る。
「いってらっしゃい。 気をつけて」
「いってくるよ。 鬼を切りに。 そしてまた桂さんと会うために」
言葉少ない中に想いをこめて、あなたを見送る。
出て行くあなたの背中を見るのはこれが最後ではない。 次の時はまた先の話だとしても、次はまたある。
だからまた会いましょう。 その優しい笑顔に会いましょう。 それまでにはもっとお料理上手くなるよ。 今度はもっと喜んでもらえるように。
私の好きになった人が喜んでくれるように。
(終)
揺れる車内。
ガタンゴトンと線路の音が聞こえるとつい外を見てしまう。
あの赤い風景がそこに見えるような気がして…
「どしたん? はとちゃん。 なんかあった?」
「ううん、なんでもないよ、陽子ちゃん」
でも今いる電車はあの時とは全然違う、周りには多くのお客さんがいて人の息吹がある。 それに時間帯も違う。 まだ日は高い。
今わたしは陽子ちゃんと街へお買い物へと向かう電車の中。
「もうすぐ夏だよねー」
そう言って陽子ちゃんは手でひらひらと扇ぐ。 車内なのでそんな暑くはないけど、気持ち的なものなのかもしれない。
「そうだね、最近少し暑くなってきたもんね」
「こりゃーあれよ。 地球温暖化ってやつよね。 はとちゃんもエコロジーしなきゃダメよー?」
「わたしは普段からエコロジーには気をつけてるよ?」
冷暖房は控えめ、電気水道も控えめに。 ついでに車内なので携帯電話はマナーモード。
「ふっ」
「陽子ちゃん、何かな? その『あんたはやっぱり甘ちゃんね』みたいな笑いは何かな?」
「あんたはやっぱり甘ちゃんね」
「わ。 陽子ちゃんやっぱりひねりなし」
以前にもした掛け合いだけど、陽子ちゃんの態度はやっぱり変わっていなかった。
「と言うか、そこでそういうこと言われるのがわからないんだけど?」
「はとちゃんみたいなおボケの気をつけてるなんてたかがしれてる、って言いたいのよ」
それは冤罪に当たりませんか?
「そういう先入観で勝手に人を決め付けるのはよくないよ、陽子ちゃん」
「でもあながち間違っていないのではなくて?」
不意に肩口から声がかかる。
「そんなことないよっ。 わたしはちゃんと気をつけてるよっ」
「どしたん、はとちゃん? 私何も言ってないんですけど?」
「全く。 本当桂は私に恥をかかせるのね。 しっかりしなさいな」
「うう…」
肩口からかかった声の主はノゾミちゃん。 ふわふわと宙に浮いている。 とは言え風船とかではなくて、その正体はなんと『鬼』なのである。
去年の夏にいろいろあって、今はわたしの携帯のストラップに『憑いている』のである。
それはいいのだけれども、いろいろ口うるさく、わたしの都合お構いなしなのはいかがなものかと。
「(ノ、ノゾミちゃんっ。 声かけるなら鈴を鳴らしてって言ったでしょ?)」
「鳴らしたわよ? 桂が気づかなかっただけではなくて?」
ちなみにノゾミちゃんは鬼なだけあって、普通の人には姿は見えず声も聞こえないらしい。 でもそれってつまりわたしがおかしな独り言を言ってるように見えるということなのです。
「(だって鳴ってないよ?)」
「そんなの知らないわよ。 私はちゃんと鳴らしたわ、桂がぼんやりしてるからいけないのよ」
「はとちゃん、何ぶつぶつ言ってるの? なんか電波来ちゃった?」
陽子ちゃん、確かに放っておいて悪いとは思うんだけど、それってひどくないですか?
「でんぱって何かしら?」
「(…説明したくないです)」
「はとちゃん」
「何かな、陽子ちゃん」
急に真面目な顔をして陽子ちゃんがわたしを見る。
「ママさんがいなくなってつらいのはわかるけど、電波を受け取るようになっちゃダメよっ。 つらいことがあるならなんでも相談してくれていいからっ」
「…」
「もちろん私じゃ大して役には立たないかもしれないけど、それでも私たち友達じゃないっ」
言ってることは嬉しいけど、感謝できないのはなぜなんでしょうか。
「陽子ちゃん、こんな人もいっぱいいる所で電波とか言うのってひどくない?」
「でんぱというのは悪いものなの?」
「そうじゃないけど、この場合は悪い意味で言われてるんだよ」
って、うっかりそのままノゾミちゃんに言葉を返してしまった。
「はとちゃんっ、しっかりしてっ!」
そう言うと陽子ちゃんがわたしの肩を持って揺さぶる。
「よ、陽子ちゃんっ。 大丈夫だからやめてやめて」
首が前後に揺らされてくらくらする。
「桂、どうかしたの?」
「(ノゾミちゃんのせいでしょーっ)」
「私が何をしたと言うの? 桂が気をつけてないのがいけないではなくて?」
「そうだけど、わかってるんだったらもうちょっと気をつかってよーっ」
「はとちゃーんっ。 帰ってきてーっ」
結局車内でプチ騒ぎを起こし恥ずかしくていたたまれなくなったので、お買い物を中止して帰ることにしました。
「本当大丈夫? はとちゃん」
「大丈夫だよ、陽子ちゃん。 と言うか誤解だから本当に」
「誤解なのかしら?」
「誤解だよっ!」
…あ。
「…はとちゃん」
「…えっと、今日は調子が悪いので帰るよ。 明日は大丈夫だって本当心配かけてごめんね、陽子ちゃん」
「全く仕様がない子ね、桂は」
「…」
友達にいらない誤解を与えた、そんな悲しい一日でした。
一人になった帰り道、
「それで、でんぱって何かしら?」
「…説明したくないです」
(終)
ガタンゴトンと線路の音が聞こえるとつい外を見てしまう。
あの赤い風景がそこに見えるような気がして…
「どしたん? はとちゃん。 なんかあった?」
「ううん、なんでもないよ、陽子ちゃん」
でも今いる電車はあの時とは全然違う、周りには多くのお客さんがいて人の息吹がある。 それに時間帯も違う。 まだ日は高い。
今わたしは陽子ちゃんと街へお買い物へと向かう電車の中。
「もうすぐ夏だよねー」
そう言って陽子ちゃんは手でひらひらと扇ぐ。 車内なのでそんな暑くはないけど、気持ち的なものなのかもしれない。
「そうだね、最近少し暑くなってきたもんね」
「こりゃーあれよ。 地球温暖化ってやつよね。 はとちゃんもエコロジーしなきゃダメよー?」
「わたしは普段からエコロジーには気をつけてるよ?」
冷暖房は控えめ、電気水道も控えめに。 ついでに車内なので携帯電話はマナーモード。
「ふっ」
「陽子ちゃん、何かな? その『あんたはやっぱり甘ちゃんね』みたいな笑いは何かな?」
「あんたはやっぱり甘ちゃんね」
「わ。 陽子ちゃんやっぱりひねりなし」
以前にもした掛け合いだけど、陽子ちゃんの態度はやっぱり変わっていなかった。
「と言うか、そこでそういうこと言われるのがわからないんだけど?」
「はとちゃんみたいなおボケの気をつけてるなんてたかがしれてる、って言いたいのよ」
それは冤罪に当たりませんか?
「そういう先入観で勝手に人を決め付けるのはよくないよ、陽子ちゃん」
「でもあながち間違っていないのではなくて?」
不意に肩口から声がかかる。
「そんなことないよっ。 わたしはちゃんと気をつけてるよっ」
「どしたん、はとちゃん? 私何も言ってないんですけど?」
「全く。 本当桂は私に恥をかかせるのね。 しっかりしなさいな」
「うう…」
肩口からかかった声の主はノゾミちゃん。 ふわふわと宙に浮いている。 とは言え風船とかではなくて、その正体はなんと『鬼』なのである。
去年の夏にいろいろあって、今はわたしの携帯のストラップに『憑いている』のである。
それはいいのだけれども、いろいろ口うるさく、わたしの都合お構いなしなのはいかがなものかと。
「(ノ、ノゾミちゃんっ。 声かけるなら鈴を鳴らしてって言ったでしょ?)」
「鳴らしたわよ? 桂が気づかなかっただけではなくて?」
ちなみにノゾミちゃんは鬼なだけあって、普通の人には姿は見えず声も聞こえないらしい。 でもそれってつまりわたしがおかしな独り言を言ってるように見えるということなのです。
「(だって鳴ってないよ?)」
「そんなの知らないわよ。 私はちゃんと鳴らしたわ、桂がぼんやりしてるからいけないのよ」
「はとちゃん、何ぶつぶつ言ってるの? なんか電波来ちゃった?」
陽子ちゃん、確かに放っておいて悪いとは思うんだけど、それってひどくないですか?
「でんぱって何かしら?」
「(…説明したくないです)」
「はとちゃん」
「何かな、陽子ちゃん」
急に真面目な顔をして陽子ちゃんがわたしを見る。
「ママさんがいなくなってつらいのはわかるけど、電波を受け取るようになっちゃダメよっ。 つらいことがあるならなんでも相談してくれていいからっ」
「…」
「もちろん私じゃ大して役には立たないかもしれないけど、それでも私たち友達じゃないっ」
言ってることは嬉しいけど、感謝できないのはなぜなんでしょうか。
「陽子ちゃん、こんな人もいっぱいいる所で電波とか言うのってひどくない?」
「でんぱというのは悪いものなの?」
「そうじゃないけど、この場合は悪い意味で言われてるんだよ」
って、うっかりそのままノゾミちゃんに言葉を返してしまった。
「はとちゃんっ、しっかりしてっ!」
そう言うと陽子ちゃんがわたしの肩を持って揺さぶる。
「よ、陽子ちゃんっ。 大丈夫だからやめてやめて」
首が前後に揺らされてくらくらする。
「桂、どうかしたの?」
「(ノゾミちゃんのせいでしょーっ)」
「私が何をしたと言うの? 桂が気をつけてないのがいけないではなくて?」
「そうだけど、わかってるんだったらもうちょっと気をつかってよーっ」
「はとちゃーんっ。 帰ってきてーっ」
結局車内でプチ騒ぎを起こし恥ずかしくていたたまれなくなったので、お買い物を中止して帰ることにしました。
「本当大丈夫? はとちゃん」
「大丈夫だよ、陽子ちゃん。 と言うか誤解だから本当に」
「誤解なのかしら?」
「誤解だよっ!」
…あ。
「…はとちゃん」
「…えっと、今日は調子が悪いので帰るよ。 明日は大丈夫だって本当心配かけてごめんね、陽子ちゃん」
「全く仕様がない子ね、桂は」
「…」
友達にいらない誤解を与えた、そんな悲しい一日でした。
一人になった帰り道、
「それで、でんぱって何かしら?」
「…説明したくないです」
(終)
「はーい」
扉を開けるとそこにはサクヤさんが立っていた。
浅間サクヤさん。 フリーのルポライター兼フォトグラファーで、いろんな所に飛び回っているという活動的な人。 およそ日本人離れした容姿で、あたかも外国の女優さんかと思う時もある。
お母さんの親友で、わたしも昔から顔馴染みだ。 本当お母さんとは仲が良かった。
だから、ついこの間お母さんが突然亡くなってしまった時から随分と助けてもらっている。
「やあ桂。 泣きやんだんだね」
「…いつまでも泣いてるわけにはいかない、から」
「そりゃそうさ。 まだ泣いてるようだったらあたしも困るからね」
そう言ってサクヤさんは優しく微笑む。
「…うん」
「さ、今日は七日参りで来たのさ。 ほら」
わたしの前に差し出された菊の花束を受け取り、サクヤさんを中へと誘う。
初七日の後は四十九日だと思っていたら、昔や信心深い人は七日ごとにお参りをするんだそうで。 サクヤさんに聞いて初めて知った。 つまり四十九日は七・七日なんだそうで。
狭い部屋に小さく置かれた祭壇、その上に置かれた白木の位牌と遺影。
その前にサクヤさんは座り、線香を焚く。 香りが部屋に漂う。 もう嗅ぎ慣れてきた、香り。
「えっと、お茶菓子がなくって…。 サクヤさんが持ってきたのでもいいかな?」
お茶の用意をしながら聞くと、サクヤさんは小さく笑って、
「そういう時は『おもたせですいませんが』って言うもんなんだよ」
と言った。
「少しは落ち着いたのかい?」
「…どうなんだろう」
正直わからない。
「お母さん、お仕事で夜遅いことも多かったし。 わたし一人でいることも多かったから、なんだかわからないよ」
「…」
「今留守にしてるだけ、そんな気分になったりもするし。 でも朝起きてご飯をお供えしてたりして、お母さんはいなくて」
少し声が震える。
「やっぱりいないんだ、亡くなっちゃったんだ、って思って」
「そうだね。 そんなすぐには受け入れられるもんじゃないさね、大切な人がいなくなるってのは」
「…うん……」
わたしは泣き出さないように耐えるので必死だったけど、サクヤさんはただ優しい眼差しで黙っていてくれていた。
「でもサクヤさん。 こんなに来てもらっていいのかな?」
「なんだい、あたしが来たら迷惑かい?」
「う、ううんっ。 そんなことないけど…」
ここずっと二日とあけず来てくれている。 わたしとしては一人になる時間が少なくて嬉しいけど、サクヤさんは社会人で働いているわけで。
「だってお仕事とか…」
「あたしはフリーだしね。 干されようと腕と美貌には自信があるから、桂に心配されるほどのことはないさ」
そう自信たっぷりに言い切るサクヤさんはかっこいいけれど、それでいいんですか?
「腕はともかく、美貌って…。 そういうのは自分で言うものじゃないんじゃないの? それに何の関係があるの?」
やはり日本人ですから、謙遜の美徳をとわたしは思うのです。
「そういう所、桂は真弓ゆずりだね。 あいつも固い家出身だから口うるさかったもんさ」
「そうなんだ」
「ああ、うるさいうるさい。 やれ目立つな、やれもっと控えめにだの、持って生まれたもんはしょうがないもんさね」
「…そうかもね」
サクヤさんは結構背もあるし、自分で言うだけの容姿だ。 目立つな、と言うのは無理かも。
「あとね、桂。 この美貌はちゃーんと関係あるんだよ。 いいかい? むさ苦しいおじさんとこんないい女がいたら、どっちに仕事を頼むさね?」
ああ、なるほど。 …って、
「別にむさ苦しいおじさんばかりじゃないでしょ、ルポライターもフォトグラファーも」
「わかりやすい例えだよ。 ま、つまりそういうことさ」
「ふーん」
日が暮れ、宵のころになるとサクヤさんに連れられて夕飯を食べに出かけた。 ずっと位牌のそばにいるのはわたしによくないって。
「いいのさ。 離れたくない気持ちもあるかもしれないけど、外の空気に触れて自分を思い出すことも大事なことだよ」
「自分を思い出す?」
サクヤさんの赤いクロカンブッシュに乗って移動しながら話す。
「そうさ。 桂はまだ生きていて、まだまだこれからいろんな人生が待っている。 それを思い出すんだよ」
「…」
「すぐには無理さね、それは構わない。 だけど、ずっとってわけにもいかないんだよ」
暗い夜道をぼんやりと見つめながらサクヤさんの言葉を聞く。
「友達だって心配してだろう? 連絡してないんじゃないかい?」
「うん…」
「焦る必要はないよ。 だけどゆっくりでも今までの自分も取り戻すのさ」
「そう、だよね。 時間が経てば、忘れちゃったりするよね」
「いや…」
否定の言葉にサクヤさんを見ると、悲しげな顔を浮かべていた。
「忘れやしないさ、大切な人との別れは…。 ずっと、ずっとね…」
そう言うサクヤさんの顔はとてもつらそうだった。
そしてその後二人とも食堂に着くまで口を開くことはなかった。
車の窓から空を見上げると、小さく星が瞬いていた。
(終)
扉を開けるとそこにはサクヤさんが立っていた。
浅間サクヤさん。 フリーのルポライター兼フォトグラファーで、いろんな所に飛び回っているという活動的な人。 およそ日本人離れした容姿で、あたかも外国の女優さんかと思う時もある。
お母さんの親友で、わたしも昔から顔馴染みだ。 本当お母さんとは仲が良かった。
だから、ついこの間お母さんが突然亡くなってしまった時から随分と助けてもらっている。
「やあ桂。 泣きやんだんだね」
「…いつまでも泣いてるわけにはいかない、から」
「そりゃそうさ。 まだ泣いてるようだったらあたしも困るからね」
そう言ってサクヤさんは優しく微笑む。
「…うん」
「さ、今日は七日参りで来たのさ。 ほら」
わたしの前に差し出された菊の花束を受け取り、サクヤさんを中へと誘う。
初七日の後は四十九日だと思っていたら、昔や信心深い人は七日ごとにお参りをするんだそうで。 サクヤさんに聞いて初めて知った。 つまり四十九日は七・七日なんだそうで。
狭い部屋に小さく置かれた祭壇、その上に置かれた白木の位牌と遺影。
その前にサクヤさんは座り、線香を焚く。 香りが部屋に漂う。 もう嗅ぎ慣れてきた、香り。
「えっと、お茶菓子がなくって…。 サクヤさんが持ってきたのでもいいかな?」
お茶の用意をしながら聞くと、サクヤさんは小さく笑って、
「そういう時は『おもたせですいませんが』って言うもんなんだよ」
と言った。
「少しは落ち着いたのかい?」
「…どうなんだろう」
正直わからない。
「お母さん、お仕事で夜遅いことも多かったし。 わたし一人でいることも多かったから、なんだかわからないよ」
「…」
「今留守にしてるだけ、そんな気分になったりもするし。 でも朝起きてご飯をお供えしてたりして、お母さんはいなくて」
少し声が震える。
「やっぱりいないんだ、亡くなっちゃったんだ、って思って」
「そうだね。 そんなすぐには受け入れられるもんじゃないさね、大切な人がいなくなるってのは」
「…うん……」
わたしは泣き出さないように耐えるので必死だったけど、サクヤさんはただ優しい眼差しで黙っていてくれていた。
「でもサクヤさん。 こんなに来てもらっていいのかな?」
「なんだい、あたしが来たら迷惑かい?」
「う、ううんっ。 そんなことないけど…」
ここずっと二日とあけず来てくれている。 わたしとしては一人になる時間が少なくて嬉しいけど、サクヤさんは社会人で働いているわけで。
「だってお仕事とか…」
「あたしはフリーだしね。 干されようと腕と美貌には自信があるから、桂に心配されるほどのことはないさ」
そう自信たっぷりに言い切るサクヤさんはかっこいいけれど、それでいいんですか?
「腕はともかく、美貌って…。 そういうのは自分で言うものじゃないんじゃないの? それに何の関係があるの?」
やはり日本人ですから、謙遜の美徳をとわたしは思うのです。
「そういう所、桂は真弓ゆずりだね。 あいつも固い家出身だから口うるさかったもんさ」
「そうなんだ」
「ああ、うるさいうるさい。 やれ目立つな、やれもっと控えめにだの、持って生まれたもんはしょうがないもんさね」
「…そうかもね」
サクヤさんは結構背もあるし、自分で言うだけの容姿だ。 目立つな、と言うのは無理かも。
「あとね、桂。 この美貌はちゃーんと関係あるんだよ。 いいかい? むさ苦しいおじさんとこんないい女がいたら、どっちに仕事を頼むさね?」
ああ、なるほど。 …って、
「別にむさ苦しいおじさんばかりじゃないでしょ、ルポライターもフォトグラファーも」
「わかりやすい例えだよ。 ま、つまりそういうことさ」
「ふーん」
日が暮れ、宵のころになるとサクヤさんに連れられて夕飯を食べに出かけた。 ずっと位牌のそばにいるのはわたしによくないって。
「いいのさ。 離れたくない気持ちもあるかもしれないけど、外の空気に触れて自分を思い出すことも大事なことだよ」
「自分を思い出す?」
サクヤさんの赤いクロカンブッシュに乗って移動しながら話す。
「そうさ。 桂はまだ生きていて、まだまだこれからいろんな人生が待っている。 それを思い出すんだよ」
「…」
「すぐには無理さね、それは構わない。 だけど、ずっとってわけにもいかないんだよ」
暗い夜道をぼんやりと見つめながらサクヤさんの言葉を聞く。
「友達だって心配してだろう? 連絡してないんじゃないかい?」
「うん…」
「焦る必要はないよ。 だけどゆっくりでも今までの自分も取り戻すのさ」
「そう、だよね。 時間が経てば、忘れちゃったりするよね」
「いや…」
否定の言葉にサクヤさんを見ると、悲しげな顔を浮かべていた。
「忘れやしないさ、大切な人との別れは…。 ずっと、ずっとね…」
そう言うサクヤさんの顔はとてもつらそうだった。
そしてその後二人とも食堂に着くまで口を開くことはなかった。
車の窓から空を見上げると、小さく星が瞬いていた。
(終)
月の光と夜の色とに青紫に染められたリボンが、ひらひらと温い風に踊っている。
「お願い、葛ちゃん止まって!」
あれはわたしがつけた危険信号。 危ないから停まれのサイン。
だけどわたしの願いもむなしく、結局は二人とも枯れ井戸の中へと落ちてしまった。
「上まで目算五メートルってところでしょーか。 おねーさんの肩にわたしが立っても、全然高さが足りないですよ」
眩しそうに遥か彼方に浮かぶ月を睨みながら葛ちゃんが言う。
「じゃあ出ようか」
「出ようかって、そんな簡単に…」
「うふふ、これなーんだ?」
わたしは壁沿いに垂れ下がっていた蔦葛を手にとり、それが井戸の縁の向こうへと結びついているのをアピールして…、
ふつっ
引っ張った瞬間抵抗が無くなり、蔦が引っ張られるまま落ちてくる。
「…」
「…蔦ですね」
何度も引っ張って試したのに…。 リボンといいこの蔦といい、備えあっても憂いありとは情けなくって泣きたくなる。
「お腹が減ってるところ、あんなにがんばったのに…」
「おねーさんまだお腹空いてるんですか?」
「違うよっ。 こんな時のために昨日のお昼に対処してあったのに…ってことでっ」
葛ちゃんは少し小首を傾げると、思い出したかのように頷く。
「なるほど。 おねーさんは昨日のお昼頃森で迷っていた時にこの井戸を見つけ、落ちないようにリボンを、落ちた時のためにこの蔦を垂らしておいた、と」
「うん…」
「それで結果は見ての通りなわけですね」
なんとなくいまだわたしが掴んでいた蔦を見て、葛ちゃんは肩を落とす。 そんな葛ちゃんの様子を見てわたしは少し冷静さを取り戻す。
いけない、ここはお姉さんとして葛ちゃんを安心させてあげないと。
「だ、大丈夫。 まだこれがあるよっ」
そう言ってわたしは切り札を葛ちゃんの目の前に差し出す。
「札…のように見えますが、それで何を?」
「これを四隅に貼っておけば、鬼は寄ってこれないんだよ」
「…ここ井戸ですよ?」
「あ…角ないね……」
井戸によっては四角ものもあるのかもしれないけれど、残念ながらわたし達が今いる井戸はよくある円形のもの。
「いえいえ、待ってください。 えっと、これはどこからどれだけお聞きすればいいのでしょうか?」
こめかみを押さえながら葛ちゃんが訴える。
「何を?」
「なぜいきなり鬼対策なんかしてるんですか?」
「とりあえず四角になるように貼ればいいのかな…」
正方形になっているかはわからないが、四面にお札を貼る。
「おねーさん聞いてます?」
「だってほら今朝葛ちゃん言ってたじゃない、丹塗矢がどうのって。 こんな時に昨日の夜みたいなことがあっても困るし…」
今は尾花ちゃんはいないし、来てくれてもこの狭い中で昨夜のような立ち回りをされてもたいへんだ。
「…なるほど、一応錯乱しているわけではないようですね」
ため息をつきながら葛ちゃんはずいぶんとひどいことを言う。
「ではこの札はどこで手に入れたのですか?」
「え? 烏月さんに貰ったんだよ?」
「いつですかっ!」
なぜだか葛ちゃんは興奮して叫ぶ。
「落ち着いてよ、葛ちゃん。 えっと…夜中に目が覚めて、廊下に出たら烏月さんがいて…」
「それはルートが違いますーっ!」
閑話休題
「さっき葛ちゃんが来る前に貰ったんだよ?」
「あっさり意見を変えてきましたね」
よくわからないけど葛ちゃんは不満そうだ。 狭い所にいるせいなのか、機嫌が悪い。
「鬼を切ることを生業としているって言ってたから、昨夜のことを相談したらこれをくれたの」
「…勝手にシーンを捏造しないでください」
「どうするの? ミカゲ。 あの子結界なんか張ったわよ」
「私達の存在に気づいたのでしょうか」
井戸の傍に立つ小さな二つの影。
「これでは手が出せないわ。 なんとかしなさいな」
「では自ら結界の外に出てきてもらいましょう」
「どうやって?」
そう片方が聞くと、聞かれた影は薄く笑った。
「だいたいおねーさん、『鬼』ってなんですか。 丹塗矢の話は神様の話ですよ? 鬼なんて一言も言ってないですよ?」
機嫌の悪い葛ちゃんはやたらと絡む。 こういう子供らしさを見てるとなんだか嬉しい。
「それはね、葛ちゃん。 烏月さんにお札を貰った時に聞いた話なんだけど、幽霊とかこの世のものではないものを総じて『鬼』って…」
「だからそれはルートが違いますっ!」
その時上の方から声がかかった。
「桂さん、大丈夫かい? 今助ける」
烏月さんの声に続いて蔦が垂らされる。 でもわたしの用意しておいた蔦より細いようにも見える。 とは言え、烏月さんが下ろしてくれたのだから大丈夫だろう。
「烏月さん、ありがとうっ」
「ちょっと待ってください、おねーさん」
蔦を掴んだわたしの手を葛ちゃんが掴む。
「うん。 まずは葛ちゃん昇って。 わたしは後でいいよ」
「順番の話じゃありませんっ! おかしくないですか? どうして千羽さんはおねーさんの名前を呼ぶんですか? この場合わたしの名前を呼ぶんではないですか?」
「さすがわたしの好きになった人…」
「…おねーさん、やはり錯乱してますか?」
「そんなことは置いておいて、とにかくまずは出ようよ。 ね?」
こんな所で押し問答していてもしょうがない。 狭い所から出れれば葛ちゃんも落ち着くかもしれないし。
葛ちゃんはまだ言い足りなそうだったが、わたしの言う通り蔦を掴み壁に足をかける。
ふつっ
とさっと葛ちゃんが倒れ、その上に蔦が落ちてくる。
「…」
「…」
「姉さま、切れました」
「見ればわかるわよっ。 あ、あの子供が重かったのよっ」
「ですが姉さま。 あの子供は贄の血の娘よりは軽いと思いますが」
淡々と不満そうに喋る影に、もう一つの影は少しうろたえながら叫ぶ。
「もっと太いのを垂らせばよいのでしょうっ? だいたい鬼の私に重さなんてわかるわけないのよっ!」
仕方なしに手近にあった太い蔦に手を伸ばすと、その手を引っかかれる。
「つっ!」
そこには白い子狐が立っていて、影を威嚇していた。 それを見た二つの影に緊張が走る。
「ミカゲっ」
呼ばれた影が素早く寄り添ってくる。 二つの影と子狐は距離を保ち、その間に緊張が高まっていく。
「…切れちゃったね」
烏月さんらしくない、とは思うものの、さっき持った時点で切れるような気もした。
「大丈夫、葛ちゃん?」
倒れたまま起き上がらない葛ちゃんに声をかける。 どこか打ったのだろうか?
すると、ゆっくりと葛ちゃんが起き上がり、ぼんやりとした様子で喋りだした。
「おねーさんはコドクを知ってますか?」
「葛ちゃんっ、それはここを出てからだよっ」
「どうして都合よく素に戻るんですかっ!」
「このっ!」
影の声とともに暗闇に赤い光が線となって駆ける。 しかし子狐は地面を蹴って赤い光を散らす。
「くすくすくす」
その様子を見ていたもう一つの影が嬉しそうに笑う。
「姉さま、どうやら封じは解かれていません」
「あら、そうなの。 それなら何も心配ないわね。 役行者の封じさえ解かれなければ」
「呪の根源たる言霊を封じられていては…」
「主さまの向こうを張る、あの恐ろしい鬼神とはいえ、ただの狐も同然ではなくて?」
「はい」
自分達の優勢を確信したのか、二つの影が落ち着きを取り戻す。 子狐は臨戦態勢のまま二つの影を睨む。
「ならばそろそろ終わりにしましょうかしら」
「はい、姉さま」
二つの影が子狐の方を向いて構える。 その次の瞬間、赤い無数の光が辺りを駆け回る。 しかし、
「させないわっ」
声と共に無数の青い蝶が赤い光を散らす。
「なっ!?」
「昨日の夜助けてもらったお返しです」
どこからか現れた青い着物姿の少女が子狐の傍らに立ち、子狐に向かって語りかける。 そして二つの影に向き直り、宣言するかのように高らかと言い放つ。
「桂ちゃんには指一本触れさせないわっ」
「わたし、葛ちゃんには強くなって欲しいよ」
目をそらしたらきっと通じない。 だからわたしはじっと葛ちゃんの瞳を見つめる。
だけど、脆すぎるわたしの涙腺は視界を眩ませる。 溢れる涙が零れたのが先かどうなのか。
「……わかりました」
「え?」
「とりあえずわたしは、ひとりのところに戻ります。 わたしひとりしかいない若杉を継いで、強くなります」
なぜかさっぱりしたような明るい表情で葛ちゃんははっきりと宣言する。
「それはもう、メチャクチャ強くなりますよ?」
♪ほしのひかーりーはー
「ちょっと待ちなさいなっ、あなた達っ!」
「何かな?」
「もうEDテーマも流れてますよ?」
二人で歌い始めたら、見たことの無い着物姿の女の子が息を切らしながら突然現れ叫ぶ。
「まだ井戸からも出てないし、かなりはしょっているし、そもそもそのEDだったら歌は流れないでしょうっ!」
「ちょっと落ち着いてよ、ノゾミちゃん」
「まだ名乗ってもいないわよっ!」
するとそこに井戸の上から声がかかる。
「姉さまっ、私ひとりではさすがにっ…」
「もうちょっとがんばりなさいなっ。 私は情けない子は嫌いよっ」
どうやらこの子はお姉ちゃんらしい。 でも妹さんが助けを求めてるんだから助けてあげた方がいいと思うのです。
「ノゾミちゃん、行ってあげたら?」
「だからあなたはなんで私の名前を知っているのっ!」
「えっと…今おねーさんは錯乱しているようですので…」
葛ちゃんがフォローになってないフォローを入れる。
「姉さまっ!」
「わかったわよっ、今行くわっ!」
そう言って女の子はふっといなくなる。
「つ、つ、葛ちゃんっ。 き、消えたよっ、ゆ、幽霊っ!?」
「すいませんけどおねーさん、これ以上付き合いきれません」
嫌なものを見るような目で葛ちゃんはわたしを見ながら深いため息をつく。 どうやら本格的に機嫌が悪いらしい。
「くっ。 これはどうしたらいいかしら、ミカゲ」
「ここは一旦引くしかないかと」
青い着物姿の少女が現れたことで優位だったはずの立場が崩れた。 少しずつ押されてきている。
「あなた達覚えていなさいっ」
くやしそうな顔を浮かべながら二つの影は闇へと消える。
「…行ったようね」
辺りの様子を伺い、青い着物姿の少女が一息つく。 そして井戸の方を向く。
「どうしましょう。 わたしの力ではあそこから出してあげることはできないし…それに結界も張ってあるし…」
そう呟き子狐を見る。
「あなたも無理ですね…」
子狐はすまなそうに耳を垂れる。
「そうだわ」
井戸の上から再び蔦が垂らされてきた。 結構太い。 これなら大丈夫だろうか。
「ありがとうっ、烏月さんっ」
「…この期に及んで桂おねーさんはあれを千羽さんだと思っているんですね」
「え? 違うの?」
「いえ、なんかもうどーでもいいです」
ご機嫌斜めの葛ちゃんは絡むを通り越して流すになったらしい。 なんだか葛ちゃんとの距離が開いたようで少し悲しい。
でも今はそれどころではない。 ここを出ることの方が大切だ。
「とにかく出ようか」
「…わかりました」
太い蔦を掴み葛ちゃんが壁に足をかける。
ふつっ
とさっと葛ちゃんが倒れ、その上に太い蔦が落ちてくる。
「…」
「…」
「あらあら、駄目だったようね。 仕方ないわ。 サクヤさんを呼んできますから、それまでお願いします」
子狐に一言言うと、青い着物姿の少女の姿が消える。 その言葉に応えるように子狐は小さく頷いた。
「大丈夫、葛ちゃん?」
倒れたまま起き上がらない葛ちゃんに声をかける。 どこか打ったのだろうか?
すると、ゆっくりと蔦にまみれた葛ちゃんが起き上がり、心底うんざりした様子で喋りだした。
「おねーさんはコドクを知ってますか?」
「……ひとりで取り残されること?」
「どうして続けるんですかーっ!」
「なんで怒るのーっ?」
夜の闇の中、息も切らさず全力でサクヤは走る。 ただ一点を目指して。
やがて少し開けた場所へたどり着く。 月明かりと闇に照らされて青紫色に染まったリボンがひらひらと舞っている。
そしてその側には生い茂った草に隠されるように井戸があった。
「桂っ!?」
サクヤは井戸へと駆け寄り覗き込みながら叫ぶ。
けれど、目に入ってきたのは寄り添って横たわる二人の少女の姿であった。
「あたしは…また、間に合わなかったって言うのかいっ…」
がっくりと肩を落とし、俯くサクヤの目に光るものが浮かぶ。
「…サクヤさん、二人とも寝ているだけよ?」
傍らに立つ青い着物姿の少女は呆れたように呟いた。
井戸の底では少女達の安らかな寝息が響いていた。 桂は葛を抱き、葛は桂にしがみついて。
「むにゃ……葛ちゃん、見ーつけたっ…」
「…それは………もっと…後です…」
それはとても幸せそうな寝顔であった。
(終)
註・主観・客観入り乱れ。 読みにくくてすみません。
「お願い、葛ちゃん止まって!」
あれはわたしがつけた危険信号。 危ないから停まれのサイン。
だけどわたしの願いもむなしく、結局は二人とも枯れ井戸の中へと落ちてしまった。
「上まで目算五メートルってところでしょーか。 おねーさんの肩にわたしが立っても、全然高さが足りないですよ」
眩しそうに遥か彼方に浮かぶ月を睨みながら葛ちゃんが言う。
「じゃあ出ようか」
「出ようかって、そんな簡単に…」
「うふふ、これなーんだ?」
わたしは壁沿いに垂れ下がっていた蔦葛を手にとり、それが井戸の縁の向こうへと結びついているのをアピールして…、
ふつっ
引っ張った瞬間抵抗が無くなり、蔦が引っ張られるまま落ちてくる。
「…」
「…蔦ですね」
何度も引っ張って試したのに…。 リボンといいこの蔦といい、備えあっても憂いありとは情けなくって泣きたくなる。
「お腹が減ってるところ、あんなにがんばったのに…」
「おねーさんまだお腹空いてるんですか?」
「違うよっ。 こんな時のために昨日のお昼に対処してあったのに…ってことでっ」
葛ちゃんは少し小首を傾げると、思い出したかのように頷く。
「なるほど。 おねーさんは昨日のお昼頃森で迷っていた時にこの井戸を見つけ、落ちないようにリボンを、落ちた時のためにこの蔦を垂らしておいた、と」
「うん…」
「それで結果は見ての通りなわけですね」
なんとなくいまだわたしが掴んでいた蔦を見て、葛ちゃんは肩を落とす。 そんな葛ちゃんの様子を見てわたしは少し冷静さを取り戻す。
いけない、ここはお姉さんとして葛ちゃんを安心させてあげないと。
「だ、大丈夫。 まだこれがあるよっ」
そう言ってわたしは切り札を葛ちゃんの目の前に差し出す。
「札…のように見えますが、それで何を?」
「これを四隅に貼っておけば、鬼は寄ってこれないんだよ」
「…ここ井戸ですよ?」
「あ…角ないね……」
井戸によっては四角ものもあるのかもしれないけれど、残念ながらわたし達が今いる井戸はよくある円形のもの。
「いえいえ、待ってください。 えっと、これはどこからどれだけお聞きすればいいのでしょうか?」
こめかみを押さえながら葛ちゃんが訴える。
「何を?」
「なぜいきなり鬼対策なんかしてるんですか?」
「とりあえず四角になるように貼ればいいのかな…」
正方形になっているかはわからないが、四面にお札を貼る。
「おねーさん聞いてます?」
「だってほら今朝葛ちゃん言ってたじゃない、丹塗矢がどうのって。 こんな時に昨日の夜みたいなことがあっても困るし…」
今は尾花ちゃんはいないし、来てくれてもこの狭い中で昨夜のような立ち回りをされてもたいへんだ。
「…なるほど、一応錯乱しているわけではないようですね」
ため息をつきながら葛ちゃんはずいぶんとひどいことを言う。
「ではこの札はどこで手に入れたのですか?」
「え? 烏月さんに貰ったんだよ?」
「いつですかっ!」
なぜだか葛ちゃんは興奮して叫ぶ。
「落ち着いてよ、葛ちゃん。 えっと…夜中に目が覚めて、廊下に出たら烏月さんがいて…」
「それはルートが違いますーっ!」
閑話休題
「さっき葛ちゃんが来る前に貰ったんだよ?」
「あっさり意見を変えてきましたね」
よくわからないけど葛ちゃんは不満そうだ。 狭い所にいるせいなのか、機嫌が悪い。
「鬼を切ることを生業としているって言ってたから、昨夜のことを相談したらこれをくれたの」
「…勝手にシーンを捏造しないでください」
「どうするの? ミカゲ。 あの子結界なんか張ったわよ」
「私達の存在に気づいたのでしょうか」
井戸の傍に立つ小さな二つの影。
「これでは手が出せないわ。 なんとかしなさいな」
「では自ら結界の外に出てきてもらいましょう」
「どうやって?」
そう片方が聞くと、聞かれた影は薄く笑った。
「だいたいおねーさん、『鬼』ってなんですか。 丹塗矢の話は神様の話ですよ? 鬼なんて一言も言ってないですよ?」
機嫌の悪い葛ちゃんはやたらと絡む。 こういう子供らしさを見てるとなんだか嬉しい。
「それはね、葛ちゃん。 烏月さんにお札を貰った時に聞いた話なんだけど、幽霊とかこの世のものではないものを総じて『鬼』って…」
「だからそれはルートが違いますっ!」
その時上の方から声がかかった。
「桂さん、大丈夫かい? 今助ける」
烏月さんの声に続いて蔦が垂らされる。 でもわたしの用意しておいた蔦より細いようにも見える。 とは言え、烏月さんが下ろしてくれたのだから大丈夫だろう。
「烏月さん、ありがとうっ」
「ちょっと待ってください、おねーさん」
蔦を掴んだわたしの手を葛ちゃんが掴む。
「うん。 まずは葛ちゃん昇って。 わたしは後でいいよ」
「順番の話じゃありませんっ! おかしくないですか? どうして千羽さんはおねーさんの名前を呼ぶんですか? この場合わたしの名前を呼ぶんではないですか?」
「さすがわたしの好きになった人…」
「…おねーさん、やはり錯乱してますか?」
「そんなことは置いておいて、とにかくまずは出ようよ。 ね?」
こんな所で押し問答していてもしょうがない。 狭い所から出れれば葛ちゃんも落ち着くかもしれないし。
葛ちゃんはまだ言い足りなそうだったが、わたしの言う通り蔦を掴み壁に足をかける。
ふつっ
とさっと葛ちゃんが倒れ、その上に蔦が落ちてくる。
「…」
「…」
「姉さま、切れました」
「見ればわかるわよっ。 あ、あの子供が重かったのよっ」
「ですが姉さま。 あの子供は贄の血の娘よりは軽いと思いますが」
淡々と不満そうに喋る影に、もう一つの影は少しうろたえながら叫ぶ。
「もっと太いのを垂らせばよいのでしょうっ? だいたい鬼の私に重さなんてわかるわけないのよっ!」
仕方なしに手近にあった太い蔦に手を伸ばすと、その手を引っかかれる。
「つっ!」
そこには白い子狐が立っていて、影を威嚇していた。 それを見た二つの影に緊張が走る。
「ミカゲっ」
呼ばれた影が素早く寄り添ってくる。 二つの影と子狐は距離を保ち、その間に緊張が高まっていく。
「…切れちゃったね」
烏月さんらしくない、とは思うものの、さっき持った時点で切れるような気もした。
「大丈夫、葛ちゃん?」
倒れたまま起き上がらない葛ちゃんに声をかける。 どこか打ったのだろうか?
すると、ゆっくりと葛ちゃんが起き上がり、ぼんやりとした様子で喋りだした。
「おねーさんはコドクを知ってますか?」
「葛ちゃんっ、それはここを出てからだよっ」
「どうして都合よく素に戻るんですかっ!」
「このっ!」
影の声とともに暗闇に赤い光が線となって駆ける。 しかし子狐は地面を蹴って赤い光を散らす。
「くすくすくす」
その様子を見ていたもう一つの影が嬉しそうに笑う。
「姉さま、どうやら封じは解かれていません」
「あら、そうなの。 それなら何も心配ないわね。 役行者の封じさえ解かれなければ」
「呪の根源たる言霊を封じられていては…」
「主さまの向こうを張る、あの恐ろしい鬼神とはいえ、ただの狐も同然ではなくて?」
「はい」
自分達の優勢を確信したのか、二つの影が落ち着きを取り戻す。 子狐は臨戦態勢のまま二つの影を睨む。
「ならばそろそろ終わりにしましょうかしら」
「はい、姉さま」
二つの影が子狐の方を向いて構える。 その次の瞬間、赤い無数の光が辺りを駆け回る。 しかし、
「させないわっ」
声と共に無数の青い蝶が赤い光を散らす。
「なっ!?」
「昨日の夜助けてもらったお返しです」
どこからか現れた青い着物姿の少女が子狐の傍らに立ち、子狐に向かって語りかける。 そして二つの影に向き直り、宣言するかのように高らかと言い放つ。
「桂ちゃんには指一本触れさせないわっ」
「わたし、葛ちゃんには強くなって欲しいよ」
目をそらしたらきっと通じない。 だからわたしはじっと葛ちゃんの瞳を見つめる。
だけど、脆すぎるわたしの涙腺は視界を眩ませる。 溢れる涙が零れたのが先かどうなのか。
「……わかりました」
「え?」
「とりあえずわたしは、ひとりのところに戻ります。 わたしひとりしかいない若杉を継いで、強くなります」
なぜかさっぱりしたような明るい表情で葛ちゃんははっきりと宣言する。
「それはもう、メチャクチャ強くなりますよ?」
♪ほしのひかーりーはー
「ちょっと待ちなさいなっ、あなた達っ!」
「何かな?」
「もうEDテーマも流れてますよ?」
二人で歌い始めたら、見たことの無い着物姿の女の子が息を切らしながら突然現れ叫ぶ。
「まだ井戸からも出てないし、かなりはしょっているし、そもそもそのEDだったら歌は流れないでしょうっ!」
「ちょっと落ち着いてよ、ノゾミちゃん」
「まだ名乗ってもいないわよっ!」
するとそこに井戸の上から声がかかる。
「姉さまっ、私ひとりではさすがにっ…」
「もうちょっとがんばりなさいなっ。 私は情けない子は嫌いよっ」
どうやらこの子はお姉ちゃんらしい。 でも妹さんが助けを求めてるんだから助けてあげた方がいいと思うのです。
「ノゾミちゃん、行ってあげたら?」
「だからあなたはなんで私の名前を知っているのっ!」
「えっと…今おねーさんは錯乱しているようですので…」
葛ちゃんがフォローになってないフォローを入れる。
「姉さまっ!」
「わかったわよっ、今行くわっ!」
そう言って女の子はふっといなくなる。
「つ、つ、葛ちゃんっ。 き、消えたよっ、ゆ、幽霊っ!?」
「すいませんけどおねーさん、これ以上付き合いきれません」
嫌なものを見るような目で葛ちゃんはわたしを見ながら深いため息をつく。 どうやら本格的に機嫌が悪いらしい。
「くっ。 これはどうしたらいいかしら、ミカゲ」
「ここは一旦引くしかないかと」
青い着物姿の少女が現れたことで優位だったはずの立場が崩れた。 少しずつ押されてきている。
「あなた達覚えていなさいっ」
くやしそうな顔を浮かべながら二つの影は闇へと消える。
「…行ったようね」
辺りの様子を伺い、青い着物姿の少女が一息つく。 そして井戸の方を向く。
「どうしましょう。 わたしの力ではあそこから出してあげることはできないし…それに結界も張ってあるし…」
そう呟き子狐を見る。
「あなたも無理ですね…」
子狐はすまなそうに耳を垂れる。
「そうだわ」
井戸の上から再び蔦が垂らされてきた。 結構太い。 これなら大丈夫だろうか。
「ありがとうっ、烏月さんっ」
「…この期に及んで桂おねーさんはあれを千羽さんだと思っているんですね」
「え? 違うの?」
「いえ、なんかもうどーでもいいです」
ご機嫌斜めの葛ちゃんは絡むを通り越して流すになったらしい。 なんだか葛ちゃんとの距離が開いたようで少し悲しい。
でも今はそれどころではない。 ここを出ることの方が大切だ。
「とにかく出ようか」
「…わかりました」
太い蔦を掴み葛ちゃんが壁に足をかける。
ふつっ
とさっと葛ちゃんが倒れ、その上に太い蔦が落ちてくる。
「…」
「…」
「あらあら、駄目だったようね。 仕方ないわ。 サクヤさんを呼んできますから、それまでお願いします」
子狐に一言言うと、青い着物姿の少女の姿が消える。 その言葉に応えるように子狐は小さく頷いた。
「大丈夫、葛ちゃん?」
倒れたまま起き上がらない葛ちゃんに声をかける。 どこか打ったのだろうか?
すると、ゆっくりと蔦にまみれた葛ちゃんが起き上がり、心底うんざりした様子で喋りだした。
「おねーさんはコドクを知ってますか?」
「……ひとりで取り残されること?」
「どうして続けるんですかーっ!」
「なんで怒るのーっ?」
夜の闇の中、息も切らさず全力でサクヤは走る。 ただ一点を目指して。
やがて少し開けた場所へたどり着く。 月明かりと闇に照らされて青紫色に染まったリボンがひらひらと舞っている。
そしてその側には生い茂った草に隠されるように井戸があった。
「桂っ!?」
サクヤは井戸へと駆け寄り覗き込みながら叫ぶ。
けれど、目に入ってきたのは寄り添って横たわる二人の少女の姿であった。
「あたしは…また、間に合わなかったって言うのかいっ…」
がっくりと肩を落とし、俯くサクヤの目に光るものが浮かぶ。
「…サクヤさん、二人とも寝ているだけよ?」
傍らに立つ青い着物姿の少女は呆れたように呟いた。
井戸の底では少女達の安らかな寝息が響いていた。 桂は葛を抱き、葛は桂にしがみついて。
「むにゃ……葛ちゃん、見ーつけたっ…」
「…それは………もっと…後です…」
それはとても幸せそうな寝顔であった。
(終)
註・主観・客観入り乱れ。 読みにくくてすみません。
「陽子ちゃん、おはよう」
「ハロー、はとちゃん。 今日はニュースがあるわよん♪」
「ニュース? どうかしたの?」
予想通りの反応にニヤリと笑みを浮かべるのは、桂のクラスメート、奈良陽子。
「うちのクラスに転校生が来るそうですわ」
と、あっさりネタばらしをしたのが、同じくクラスメートの東郷凛。
「お凛っ! なんでそんな簡単にバラしちゃうのっ!」
「あら、奈良さんのことですから、この後に嘘を吹き込むと思ってましたので。 だから転校生までで止めておいたのですけど?」
「ぐぬぬぬ…」
「へー。 どんな人だろうね?」
言われて教室の中を伺うと、確かに皆一様にいつもよりざわついている。
「それが女装した男って話なのよ」
「ええっ! 陽子ちゃん、それ本当っ!?」
「…」
「…」
「…」
時が止まったかのようなしばしの沈黙。
「く、くくく…あっはっはっはっ。 はとちゃん、あんた本当最高っ」
陽子の隣で凛も苦笑を浮かべている。
「………陽子ちゃん」
「こんな嘘に騙されるなんて、今時はとちゃんしかいないって、あはははっ」
「確かにそうですわね」
「お凛さんまで…」
恨みがましい目で見る桂に、凛が微笑みながらとりなす様に言う。
「羽藤さんが純粋な証拠ですわ」
「いやー、純粋で済ますのはどうかしら?」
そんな話をしている内に予鈴が流れる。
「ま、もうすぐ会えるわよ。 女装男には」
「陽子ちゃんっ」
「あははっ。 ま、楽しみにしましょっ」
やがて担任の教師がやって来て、HRが始まる。
「…今日は、このクラスに…転校生が来る事になりました。 えー…入ってきなさい」
担任の案内で教室に入ってきたのは、女装した男ではもちろんなく、まだ幼い少女だった。 そう、まだあどけなさの残る少女、若杉葛であった。
誰一人として想像すらできなかった転校生に教室がざわめく。
「はい、静かに。 静かにっ。 では自己紹介をしてください」
「はい。 わたくし、若杉葛と申します。 これから皆さんよろしくお願いします」
ぺこっと頭を下げる。
「特に桂おねーさんはよろしくしてくださいねっ♪」
そう言って、愛らしい満面の笑みを浮かべた。
「あら? 羽藤さんは知り合い? では若杉さんは羽藤さんの隣にした方がいいかしら」
「ありがとうございます♪」
教師の指示に従い、隣の席が空けられる。 葛は教壇から下りるとちょこちょことやって来て座る。
「今後ともよろしくお願いしますね、桂おねーさん」
「えっと、でもどうして?」
「飛び級というやつで」
「うちの学校にそんなのあったっけ?」
「作らせました♪」
笑顔であっさりと返され、桂の開いた口が塞がらない。
「まあ高校程度の学業なら実際できますし。 問題としては体育くらいでしょう」
「…高校程度」
言われて桂は経観塚での葛を思い返す。 なんとなく納得。
そんなこんなの内に休み時間へとなる。
「はとちゃーん、こんな子供と浮気だなんてー。 犯罪だよ、犯罪」
「陽子ちゃんっ」
さっそくやって来た陽子とお凛の2人に、桂は葛を紹介する。
「奈良さんに東郷さんですね。 よろしくお願いします」
「どうぞよろしく。 ところで羽藤さんとはどこでお知り合いに?」
「お凛っ!」
突然の大声に驚き、3人とも陽子を見る。
「なんですの? 奈良さん」
「こんな子供が転校してきて、最初に聞くことがそれってどーいうことだっ!」
「はあ。 では何を聞けばよろしいですの?」
「なんで転校してきたか、に決まってるでしょっ」
「…」
「…」
「…」
しばしの沈黙の後、3人同時に口を開く。
「わたしに会いに来たんじゃないかな」
「桂おねーさんに会うために来ました」
「羽藤さんに会いに来たのではないかしら」
こぼれた言葉はほぼ皆同じ内容であった。
「お凛さん、なんでわかるの!?」
「いや、はとちゃん。 そうじゃなくて…」
「それはですね。 今日来たばかりのおかしな転校生と仲のいい素振りで、かつその転校生の様子を見ていれば、自ずと答えは出てくるわけですよ」
「そういうことですわね」
「そうなの?」
桂の疑問には答えず、葛は凛の方に向き直り言う。
「質問にお答えすると、しばらく前に桂おねーさんのご実家にやっかいになっていた縁でして」
「む!? はとちゃんの実家?」
葛の言葉に凛ではなく陽子が反応する。
「じゃああん時の子供かっ!」
「陽子ちゃん、あの時も名前教えたよ?」
「そんなん覚えてるかーっ」
「力強く言えることではないと思いますわ、奈良さん」
呆れた表情で凛が陽子に諭すように言う。
「と言うことは…奈良さんともお知り合いですの?」
「ううん。 陽子ちゃんには電話で話しただけで、会うのは初めてだよ」
「この子は不法入居者なのよっ」
そう言って陽子は葛を力強く指差す。
「事後承諾ではありますが、許可は得ましたよ。 ですから問題はないと思いますけど」
しれっと答える葛を不満そうに陽子が睨む。
「お話がよくわからないのですけど…」
「あ、お凛さんには話してなかったかも。 あのね、わたしの実家って誰も住んでなかったの。 そこに葛ちゃんが泊まりこんでたんだ」
「そうだったのですか。 でもどうして羽藤さんのご実家にいらしたのですか?」
「それは…」
どう答えていいかわからず桂が葛を見る。
「その時わたしは行く当てもなく旅をしていたのですが、疲れ果てた所に桂おねーさんのご実家に辿り着きまして、これ幸いと宿を借りていたわけです」
「旅って、一人で?」
「いえ、友達と一緒でしたよ」
さらっと答える葛に桂は複雑な表情を浮かべる。
「羽藤さん、どうかしましたか?」
「あ、ううん。 なんでもないなんでもない」
ぱたぱたと桂は両手を振る。
「まあそういうわけで桂おねーさんとはお知り合いになったわけです」
「そうでしたの」
「で、あんた幾つなの?」
「そうですね…皆さんより年下ですね」
「…で、幾つなの?」
苛立った表情で陽子ちゃんが繰り返し尋ねる。
「秘密です」
「なにおーっ!?」
「と言うよりも言っても意味ないと思われますが? 幾つであろうと奈良さんはご不満のようですし」
「ぐぬぬぬ…」
先の展開を見越されて、陽子はくやしそうに歯噛みする。
「若杉さんの仰るとおりですわね。 奈良さんも年上なのですし、それらしく振舞う方がよろしいかと」
「お凛っ。 あんたこの子の味方なのっ?」
「もー、陽子ちゃんてばー。 葛ちゃんの何が気に入らないの?」
「ぐあっ。 はとちゃんまで…。 あたし達が今まで築いてきた絆は? 育ててきた愛は?」
「奈良さんは楽しい人ですねえ」
「まあ楽しいのは最初だけですけれど。 さすがに毎日見ると疲れてきますわね」
「あんたらねえ…」
休み時間が終わり授業が始まる。
やって来る各教科の教師達は知っていたらしく動揺は見せない。 淡々といつも通りな授業風景。 時折、葛を試す様子もあったが、自分で言っていた通り高校の学力は持っているらしく、事もなし。
かくして昼休みにとなる。
「あれ? …はとちゃん、お弁当なんだ……その、どうして?」
カバンから弁当を出す桂を見て陽子がためらいながらも聞く。 桂は少し前に母を亡くしたため、当然の疑問か。
「あ、これ? これは昨日サクヤさんが来てて、作ってくれたんだ」
「サクヤさんとはどちらの方でしょうか?」
「お母さんの親友で、わたしが小さい頃からのお付き合いの人だよ」
「ほほう、サクヤさんのお弁当ですか。 それは美味しそうですねー」
「あれ? 葛ちゃんはお弁当じゃないんだ?」
桂が葛の方を見ると、葛の前には袋に入ったパンが3つ4つ。
「もしかして…葛ちゃん、まだあんな食事してるの?」
「あんな食事?」
「…なんだか蚊帳の外な気分がするんだけど」
「たはは…身に付いた習性はなかなか変えることは出来ないものでして…」
肩をすくめて申し訳無さそうな表情を葛は浮かべる。
「サクヤさんも言ってたじゃない。 よくないよ、葛ちゃん。 …しょうがないなー、わたしのお弁当分けてあげるね」
「あら。 そのサクヤさんと若杉さんはお知り合いなのですか?」
「あ、うん。 その実家にいた時に」
「いえいえ、それには及びませんよ。 桂おねーさんはお気になさらずお食べください」
「ダメだよ、葛ちゃん。 ね、お願い。 一緒に食べよ?」
そう言って桂は椅子を動かして葛に寄せ、二人の真ん中に弁当を置く。
「桂おねーさん…」
「ふふ、仲がよろしいのですわね」
「…」
その様子を陽子が不機嫌そうに見つめる。
「あ、でもお箸が一膳しかないよ、どうしようか?」
「では食堂にでも行っていただいてきますね」
「陽子ちゃん達を待たせちゃうから…あ、なら、葛ちゃんが嫌じゃなかったら、わたしが食べさせてあげるよ」
「嫌っ!」
陽子が力強く口を挟む。
「…なんで陽子ちゃんが言うのかな?」
「奈良さん、大人気ないですわよ」
「ううーっ、大人気があろうがなかろうが嫌なもんは嫌っ! ダメよ、はとちゃんっ。 そんないやらしいっ」
「どうして?」
「間接キスじゃないっ。 ダメダメっ、絶対ダメっ!」
大げさに手を振るジェスチャー付きで陽子が力説する。 その様子を桂と葛は呆気に取られた顔で、凛はため息混じりに見つめる。
「でもわたし、よく陽子ちゃんから飲み物貰ったりしてるよ? あれはいいの?」
「あたしはいいのっ」
「奈良さん、いい加減にしたらどうですか? みっともないですわよ」
「…えっと、時間が勿体無いので箸をいただいてきますね。 わたしに構わず、お先にいただいててください」
そう言って葛は教室を出て行く。
「あ、葛ちゃんっ」
「…奈良さん」
「だって。 …だって、嫌なんだもん……」
「陽子ちゃんひどいよ。 葛ちゃん、かわいそう…」
「…うう、はとちゃんこそひどいよ」
口を尖らせて不満そうな声を陽子が漏らす。
「奈良さんにも困りましたね…」
「陽子ちゃん、仲良くしてよ。 …葛ちゃんはいろいろたいへんなんだよ?」
「何がよ」
「葛ちゃんは若杉グループの後継ぎで…あれ? 今は違うのかな?」
「先日、正式に会長に就任していますわね」
よくわからなくなって頭を抱える桂に凛が助け舟を出すかのように言葉を繋ぐ。
「なんでお凛が知ってるの」
「結構なニュースになりましたから。 奈良さんも少しは新聞やニュースをご覧になった方がよろしいですわ」
「若杉グループって何なのよ」
「あの若杉ですわ」
「あの若杉って………え? 銀行とかなんとかの? あの?」
「そうだよ、陽子ちゃん。 凄いよね、お嬢さまなんだよ」
「…お嬢の何がたいへんなのよ。 変わって欲しいくらいよ」
ふてくされた顔のまま二人から視線を逸らし陽子は言う。
「でも葛ちゃんお父さんもお母さんもいないから…」
「…」
「でなければあのように幼くして会長に就任されることも無いでしょう」
「…」
理解はできたが感情が納得しない。 言葉を出すことなく俯き黙る陽子。
「仲良くして。 ね? 陽子ちゃん」
「…」
「『子供』と呼んでらっしゃったではないですか。 あなたが大人なのでしょう? どっちが大人かわかりませんわよ?」
「…わかったわよ」
ようやく顔を上げ呟くように応える。 そして桂を見つめ陽子が問う。
「はとちゃん。 あの子のこと…好き?」
「うん、好きだよ」
「あたしは?」
「好きだよ?」
「…そっか」
ふう、と大きく息をつく。 そして首を振っていつもの表情に戻って陽子が言う。
「そだねっ。 年上なんだからお姉さまとして振舞わなくっちゃねっ!」
「うんっ」
「手のかかる方ですわね」
「なんか言った? お凛」
「いえ。 別に何も」
すると、教室の入り口に小さな姿が帰ってくる。
「ただいま戻りましたー。 …あれ? 皆さん召し上がってらっしゃらなかったので?」
「うん。 やっぱりみんなで食べた方がおいしいよ」
「そうですわね」
「ほら時間無くなっちゃうから、さっさと座りな、子供」
雨は降らねど地固まる、か。 新たに増えた友との絆はこれから紡ぐもの。 一風変わった転校生との時間は始まったばかり。
「ほれ。 特別にあたしのピーマンもくれてやろう」
「…陽子ちゃん。 それ嫌いなだけじゃ…」
「本当困った方ですわね…」
歓迎されるかされざるか、いろいろな出来事を経て時間が答えを出すであろう。 どちらにせよ選んだのは葛自身である。
「では奈良さんにはお礼にジャムパンのジャムを差し上げましょうー」
「いるかーっ!」
「若杉さんの方が一枚上手ですわね」
「もー、二人とも仲良くしてってば」
だから葛は、自分が選んだ道を正しいと思えるように、全てに立ち向かうことに決めたあの日のために、
やりたい放題好き放題。
(終)
「ハロー、はとちゃん。 今日はニュースがあるわよん♪」
「ニュース? どうかしたの?」
予想通りの反応にニヤリと笑みを浮かべるのは、桂のクラスメート、奈良陽子。
「うちのクラスに転校生が来るそうですわ」
と、あっさりネタばらしをしたのが、同じくクラスメートの東郷凛。
「お凛っ! なんでそんな簡単にバラしちゃうのっ!」
「あら、奈良さんのことですから、この後に嘘を吹き込むと思ってましたので。 だから転校生までで止めておいたのですけど?」
「ぐぬぬぬ…」
「へー。 どんな人だろうね?」
言われて教室の中を伺うと、確かに皆一様にいつもよりざわついている。
「それが女装した男って話なのよ」
「ええっ! 陽子ちゃん、それ本当っ!?」
「…」
「…」
「…」
時が止まったかのようなしばしの沈黙。
「く、くくく…あっはっはっはっ。 はとちゃん、あんた本当最高っ」
陽子の隣で凛も苦笑を浮かべている。
「………陽子ちゃん」
「こんな嘘に騙されるなんて、今時はとちゃんしかいないって、あはははっ」
「確かにそうですわね」
「お凛さんまで…」
恨みがましい目で見る桂に、凛が微笑みながらとりなす様に言う。
「羽藤さんが純粋な証拠ですわ」
「いやー、純粋で済ますのはどうかしら?」
そんな話をしている内に予鈴が流れる。
「ま、もうすぐ会えるわよ。 女装男には」
「陽子ちゃんっ」
「あははっ。 ま、楽しみにしましょっ」
やがて担任の教師がやって来て、HRが始まる。
「…今日は、このクラスに…転校生が来る事になりました。 えー…入ってきなさい」
担任の案内で教室に入ってきたのは、女装した男ではもちろんなく、まだ幼い少女だった。 そう、まだあどけなさの残る少女、若杉葛であった。
誰一人として想像すらできなかった転校生に教室がざわめく。
「はい、静かに。 静かにっ。 では自己紹介をしてください」
「はい。 わたくし、若杉葛と申します。 これから皆さんよろしくお願いします」
ぺこっと頭を下げる。
「特に桂おねーさんはよろしくしてくださいねっ♪」
そう言って、愛らしい満面の笑みを浮かべた。
「あら? 羽藤さんは知り合い? では若杉さんは羽藤さんの隣にした方がいいかしら」
「ありがとうございます♪」
教師の指示に従い、隣の席が空けられる。 葛は教壇から下りるとちょこちょことやって来て座る。
「今後ともよろしくお願いしますね、桂おねーさん」
「えっと、でもどうして?」
「飛び級というやつで」
「うちの学校にそんなのあったっけ?」
「作らせました♪」
笑顔であっさりと返され、桂の開いた口が塞がらない。
「まあ高校程度の学業なら実際できますし。 問題としては体育くらいでしょう」
「…高校程度」
言われて桂は経観塚での葛を思い返す。 なんとなく納得。
そんなこんなの内に休み時間へとなる。
「はとちゃーん、こんな子供と浮気だなんてー。 犯罪だよ、犯罪」
「陽子ちゃんっ」
さっそくやって来た陽子とお凛の2人に、桂は葛を紹介する。
「奈良さんに東郷さんですね。 よろしくお願いします」
「どうぞよろしく。 ところで羽藤さんとはどこでお知り合いに?」
「お凛っ!」
突然の大声に驚き、3人とも陽子を見る。
「なんですの? 奈良さん」
「こんな子供が転校してきて、最初に聞くことがそれってどーいうことだっ!」
「はあ。 では何を聞けばよろしいですの?」
「なんで転校してきたか、に決まってるでしょっ」
「…」
「…」
「…」
しばしの沈黙の後、3人同時に口を開く。
「わたしに会いに来たんじゃないかな」
「桂おねーさんに会うために来ました」
「羽藤さんに会いに来たのではないかしら」
こぼれた言葉はほぼ皆同じ内容であった。
「お凛さん、なんでわかるの!?」
「いや、はとちゃん。 そうじゃなくて…」
「それはですね。 今日来たばかりのおかしな転校生と仲のいい素振りで、かつその転校生の様子を見ていれば、自ずと答えは出てくるわけですよ」
「そういうことですわね」
「そうなの?」
桂の疑問には答えず、葛は凛の方に向き直り言う。
「質問にお答えすると、しばらく前に桂おねーさんのご実家にやっかいになっていた縁でして」
「む!? はとちゃんの実家?」
葛の言葉に凛ではなく陽子が反応する。
「じゃああん時の子供かっ!」
「陽子ちゃん、あの時も名前教えたよ?」
「そんなん覚えてるかーっ」
「力強く言えることではないと思いますわ、奈良さん」
呆れた表情で凛が陽子に諭すように言う。
「と言うことは…奈良さんともお知り合いですの?」
「ううん。 陽子ちゃんには電話で話しただけで、会うのは初めてだよ」
「この子は不法入居者なのよっ」
そう言って陽子は葛を力強く指差す。
「事後承諾ではありますが、許可は得ましたよ。 ですから問題はないと思いますけど」
しれっと答える葛を不満そうに陽子が睨む。
「お話がよくわからないのですけど…」
「あ、お凛さんには話してなかったかも。 あのね、わたしの実家って誰も住んでなかったの。 そこに葛ちゃんが泊まりこんでたんだ」
「そうだったのですか。 でもどうして羽藤さんのご実家にいらしたのですか?」
「それは…」
どう答えていいかわからず桂が葛を見る。
「その時わたしは行く当てもなく旅をしていたのですが、疲れ果てた所に桂おねーさんのご実家に辿り着きまして、これ幸いと宿を借りていたわけです」
「旅って、一人で?」
「いえ、友達と一緒でしたよ」
さらっと答える葛に桂は複雑な表情を浮かべる。
「羽藤さん、どうかしましたか?」
「あ、ううん。 なんでもないなんでもない」
ぱたぱたと桂は両手を振る。
「まあそういうわけで桂おねーさんとはお知り合いになったわけです」
「そうでしたの」
「で、あんた幾つなの?」
「そうですね…皆さんより年下ですね」
「…で、幾つなの?」
苛立った表情で陽子ちゃんが繰り返し尋ねる。
「秘密です」
「なにおーっ!?」
「と言うよりも言っても意味ないと思われますが? 幾つであろうと奈良さんはご不満のようですし」
「ぐぬぬぬ…」
先の展開を見越されて、陽子はくやしそうに歯噛みする。
「若杉さんの仰るとおりですわね。 奈良さんも年上なのですし、それらしく振舞う方がよろしいかと」
「お凛っ。 あんたこの子の味方なのっ?」
「もー、陽子ちゃんてばー。 葛ちゃんの何が気に入らないの?」
「ぐあっ。 はとちゃんまで…。 あたし達が今まで築いてきた絆は? 育ててきた愛は?」
「奈良さんは楽しい人ですねえ」
「まあ楽しいのは最初だけですけれど。 さすがに毎日見ると疲れてきますわね」
「あんたらねえ…」
休み時間が終わり授業が始まる。
やって来る各教科の教師達は知っていたらしく動揺は見せない。 淡々といつも通りな授業風景。 時折、葛を試す様子もあったが、自分で言っていた通り高校の学力は持っているらしく、事もなし。
かくして昼休みにとなる。
「あれ? …はとちゃん、お弁当なんだ……その、どうして?」
カバンから弁当を出す桂を見て陽子がためらいながらも聞く。 桂は少し前に母を亡くしたため、当然の疑問か。
「あ、これ? これは昨日サクヤさんが来てて、作ってくれたんだ」
「サクヤさんとはどちらの方でしょうか?」
「お母さんの親友で、わたしが小さい頃からのお付き合いの人だよ」
「ほほう、サクヤさんのお弁当ですか。 それは美味しそうですねー」
「あれ? 葛ちゃんはお弁当じゃないんだ?」
桂が葛の方を見ると、葛の前には袋に入ったパンが3つ4つ。
「もしかして…葛ちゃん、まだあんな食事してるの?」
「あんな食事?」
「…なんだか蚊帳の外な気分がするんだけど」
「たはは…身に付いた習性はなかなか変えることは出来ないものでして…」
肩をすくめて申し訳無さそうな表情を葛は浮かべる。
「サクヤさんも言ってたじゃない。 よくないよ、葛ちゃん。 …しょうがないなー、わたしのお弁当分けてあげるね」
「あら。 そのサクヤさんと若杉さんはお知り合いなのですか?」
「あ、うん。 その実家にいた時に」
「いえいえ、それには及びませんよ。 桂おねーさんはお気になさらずお食べください」
「ダメだよ、葛ちゃん。 ね、お願い。 一緒に食べよ?」
そう言って桂は椅子を動かして葛に寄せ、二人の真ん中に弁当を置く。
「桂おねーさん…」
「ふふ、仲がよろしいのですわね」
「…」
その様子を陽子が不機嫌そうに見つめる。
「あ、でもお箸が一膳しかないよ、どうしようか?」
「では食堂にでも行っていただいてきますね」
「陽子ちゃん達を待たせちゃうから…あ、なら、葛ちゃんが嫌じゃなかったら、わたしが食べさせてあげるよ」
「嫌っ!」
陽子が力強く口を挟む。
「…なんで陽子ちゃんが言うのかな?」
「奈良さん、大人気ないですわよ」
「ううーっ、大人気があろうがなかろうが嫌なもんは嫌っ! ダメよ、はとちゃんっ。 そんないやらしいっ」
「どうして?」
「間接キスじゃないっ。 ダメダメっ、絶対ダメっ!」
大げさに手を振るジェスチャー付きで陽子が力説する。 その様子を桂と葛は呆気に取られた顔で、凛はため息混じりに見つめる。
「でもわたし、よく陽子ちゃんから飲み物貰ったりしてるよ? あれはいいの?」
「あたしはいいのっ」
「奈良さん、いい加減にしたらどうですか? みっともないですわよ」
「…えっと、時間が勿体無いので箸をいただいてきますね。 わたしに構わず、お先にいただいててください」
そう言って葛は教室を出て行く。
「あ、葛ちゃんっ」
「…奈良さん」
「だって。 …だって、嫌なんだもん……」
「陽子ちゃんひどいよ。 葛ちゃん、かわいそう…」
「…うう、はとちゃんこそひどいよ」
口を尖らせて不満そうな声を陽子が漏らす。
「奈良さんにも困りましたね…」
「陽子ちゃん、仲良くしてよ。 …葛ちゃんはいろいろたいへんなんだよ?」
「何がよ」
「葛ちゃんは若杉グループの後継ぎで…あれ? 今は違うのかな?」
「先日、正式に会長に就任していますわね」
よくわからなくなって頭を抱える桂に凛が助け舟を出すかのように言葉を繋ぐ。
「なんでお凛が知ってるの」
「結構なニュースになりましたから。 奈良さんも少しは新聞やニュースをご覧になった方がよろしいですわ」
「若杉グループって何なのよ」
「あの若杉ですわ」
「あの若杉って………え? 銀行とかなんとかの? あの?」
「そうだよ、陽子ちゃん。 凄いよね、お嬢さまなんだよ」
「…お嬢の何がたいへんなのよ。 変わって欲しいくらいよ」
ふてくされた顔のまま二人から視線を逸らし陽子は言う。
「でも葛ちゃんお父さんもお母さんもいないから…」
「…」
「でなければあのように幼くして会長に就任されることも無いでしょう」
「…」
理解はできたが感情が納得しない。 言葉を出すことなく俯き黙る陽子。
「仲良くして。 ね? 陽子ちゃん」
「…」
「『子供』と呼んでらっしゃったではないですか。 あなたが大人なのでしょう? どっちが大人かわかりませんわよ?」
「…わかったわよ」
ようやく顔を上げ呟くように応える。 そして桂を見つめ陽子が問う。
「はとちゃん。 あの子のこと…好き?」
「うん、好きだよ」
「あたしは?」
「好きだよ?」
「…そっか」
ふう、と大きく息をつく。 そして首を振っていつもの表情に戻って陽子が言う。
「そだねっ。 年上なんだからお姉さまとして振舞わなくっちゃねっ!」
「うんっ」
「手のかかる方ですわね」
「なんか言った? お凛」
「いえ。 別に何も」
すると、教室の入り口に小さな姿が帰ってくる。
「ただいま戻りましたー。 …あれ? 皆さん召し上がってらっしゃらなかったので?」
「うん。 やっぱりみんなで食べた方がおいしいよ」
「そうですわね」
「ほら時間無くなっちゃうから、さっさと座りな、子供」
雨は降らねど地固まる、か。 新たに増えた友との絆はこれから紡ぐもの。 一風変わった転校生との時間は始まったばかり。
「ほれ。 特別にあたしのピーマンもくれてやろう」
「…陽子ちゃん。 それ嫌いなだけじゃ…」
「本当困った方ですわね…」
歓迎されるかされざるか、いろいろな出来事を経て時間が答えを出すであろう。 どちらにせよ選んだのは葛自身である。
「では奈良さんにはお礼にジャムパンのジャムを差し上げましょうー」
「いるかーっ!」
「若杉さんの方が一枚上手ですわね」
「もー、二人とも仲良くしてってば」
だから葛は、自分が選んだ道を正しいと思えるように、全てに立ち向かうことに決めたあの日のために、
やりたい放題好き放題。
(終)
「桂ちゃん、明日はバレンタインデーね」
学校から帰ってのんびりとテレビを見ていたら、突然柚明お姉ちゃんが言ってきた。
「うん、そうだねー。 でもわたし女子校だからあまり関係ないかな」
「あら桂ちゃんはあげないの?」
「え? 柚明お姉ちゃんあげる人いるの?」
「あらあら。 桂ちゃんたらひどいわね」
「え? え?」
わたしの知らない間に誰か好きな人ができたのだろうか。 驚いたわたしは言葉が出ない。
「さあ、そろそろ湯煎でも始めようかしら」
そう言ってお姉ちゃんは台所へと向かう。
「え、お姉ちゃん誰にあげるのっ?」
「~♪」
聞こえなかったのか、無視されたのか。 お姉ちゃんは鼻歌を歌いながら、湯煎を始めたらしい。
何か大切な人を奪われたような気分。 なぜだか鼓動が早くなる。 …いやだ、気持ち悪い。
ドンドンドンッ。
不意に玄関口の扉が叩かれる。
「は、はーい」
「あら、どなたかしら。 悪いけど桂ちゃん出てくれる?」
台所からお姉ちゃんの声が飛んでくる。 と同時に玄関口からも声が来た。
「おーい、いないのかーい」
「…サクヤさんみたい」
「…もう。 ベルを鳴らしてって言ってるのに」
「桂ー。 柚明ー」
「はーい、今出まーす」
扉を開けるとサクヤさんが赤い大きな紙袋を抱えて立っていた。
「何それ、サクヤさん」
「よっ。 久しぶりだね、桂。 とりあえず中に入れとくれよ」
「あ、うん」
「もう…サクヤさんたらいつまでたっても扉を叩くのやめてくださらないんですね」
お姉ちゃんがエプロンで手を拭きながら、サクヤさんを出迎える。
「そう固いこと言うんじゃないよ、柚明。 …って、やっぱりあんたも準備してたのかい」
「え? 何の話?」
「明日はバレンタインデーだろ?」
「うん」
それは関係あるんですか?
「サクヤさん、桂ちゃんはあげる人いないんですって。 ひどいと思いません?」
お姉ちゃんがサクヤさんにひどく真面目な顔で訴える。 わたしはさっきから心が落ち着かない程悩んでいるのに、お姉ちゃんってばひどい…。 だけど追い討ちをかけるように、
「ああー? 桂、いくらなんでもそりゃないんじゃないかい? あたしだってこうやって、ちゃーんと用意してるよ?」
そうサクヤさんは言って紙袋を逆さにする。 と、たくさんのチョコレートが転がり落ちてくる。
「…サクヤさんのはお仕事先への義理チョコでしょ…」
「何言ってんだい。 義理用のは別に買ってあるよ。 これは別口さね」
「えっ! じゃあサクヤさんもあげる人いるの!?」
「当たり前じゃないか。 桂こそ本当にあげる人いないのかい?」
「…いないよ。 そんな人、誰も」
わたしがそう言うと二人は揃ってため息をつく。 それって、なんかひどくないですか?
「柚明、よくないよ。 こういうのは」
「…ええ、そうですね。 …でも、こういうことは誰かに言われてすることでもありませんから」
なんだか変な会話のような気がする上に、どうもわたしの事らしい。
「…わたし、誰かにあげなくちゃいけないのかな?」
「…そうじゃないけど……」
「あげなくちゃいけない、わけではないけど、あげる方がいいさね」
「誰に?」
わたしが聞くと、二人は顔を見合わせる。
「そりゃあ…」
「サクヤさん」
言おうとしたサクヤさんをお姉ちゃんが止める。
「桂ちゃん」
わたしを真っ直ぐに見つめ、柚明お姉ちゃんは真剣な顔で言う。
「それをわたし達が言ったら、その時点で意味はないの。 これは義理でも義務でもないから。 桂ちゃんがわからないなら、わたし達は残念だなと思うけど誰にもあげなくていいのよ」
「でも…」
答えどころか、問題すらわかってないようなわたしはもう頭がおかしくなりそうだった。
なんで二人にはあげる人がいるの? どうしてわたしは責められてるの? 二人のチョコレートをあげる程好きな人って誰?
こんな時に誰か相談できたら…例えば………あっ!!
「白花ちゃん…」
忘れていた。 今のわたしを、わたし達を助けてくれた大切な人。 わたしの最も身近な異性、お兄ちゃん。
「…桂ちゃん」
「大切なお兄ちゃんじゃないか。 あげないでいいのかい、桂」
「ううん、ううんっ」
大きく首を振る。 いいわけなんてない。 あげたい、心の底から。
「わ、わたし、チョコ買ってくるっ!」
「あたしの分けてあげようか?」
「ううんっ。 ちゃんと自分で買ってくるっ!」
「…そうかい」
「台所は準備しておくから大丈夫よ、桂ちゃん」
「ありがとう、お姉ちゃんっ」
お財布を持って慌てて駆け出す。
大きなチョコレートを買いながら思う。 あげる人がいないなんてことはない。 誰かに助けられ、誰かに感謝して生きているのだから、あげたい人はいるに決まっている。
わかっていなかった自分を反省して、白花ちゃんの分以外にもチョコレートを買う。
明日渡そう。 白花ちゃんには思いを込めて手作りの大きなチョコを。 そして、わたしの大切な人達にも思いを込めて、感謝して。
ありがとう、柚明お姉ちゃん。 ありがとう、サクヤさん。 ありがとう、陽子ちゃん、お凛さん。 ありがとう、烏月さん、葛ちゃん。 そして…ありがとう、お父さん、お母さん。
槐の香りと共に、このチョコレートを渡そう。
(終)
学校から帰ってのんびりとテレビを見ていたら、突然柚明お姉ちゃんが言ってきた。
「うん、そうだねー。 でもわたし女子校だからあまり関係ないかな」
「あら桂ちゃんはあげないの?」
「え? 柚明お姉ちゃんあげる人いるの?」
「あらあら。 桂ちゃんたらひどいわね」
「え? え?」
わたしの知らない間に誰か好きな人ができたのだろうか。 驚いたわたしは言葉が出ない。
「さあ、そろそろ湯煎でも始めようかしら」
そう言ってお姉ちゃんは台所へと向かう。
「え、お姉ちゃん誰にあげるのっ?」
「~♪」
聞こえなかったのか、無視されたのか。 お姉ちゃんは鼻歌を歌いながら、湯煎を始めたらしい。
何か大切な人を奪われたような気分。 なぜだか鼓動が早くなる。 …いやだ、気持ち悪い。
ドンドンドンッ。
不意に玄関口の扉が叩かれる。
「は、はーい」
「あら、どなたかしら。 悪いけど桂ちゃん出てくれる?」
台所からお姉ちゃんの声が飛んでくる。 と同時に玄関口からも声が来た。
「おーい、いないのかーい」
「…サクヤさんみたい」
「…もう。 ベルを鳴らしてって言ってるのに」
「桂ー。 柚明ー」
「はーい、今出まーす」
扉を開けるとサクヤさんが赤い大きな紙袋を抱えて立っていた。
「何それ、サクヤさん」
「よっ。 久しぶりだね、桂。 とりあえず中に入れとくれよ」
「あ、うん」
「もう…サクヤさんたらいつまでたっても扉を叩くのやめてくださらないんですね」
お姉ちゃんがエプロンで手を拭きながら、サクヤさんを出迎える。
「そう固いこと言うんじゃないよ、柚明。 …って、やっぱりあんたも準備してたのかい」
「え? 何の話?」
「明日はバレンタインデーだろ?」
「うん」
それは関係あるんですか?
「サクヤさん、桂ちゃんはあげる人いないんですって。 ひどいと思いません?」
お姉ちゃんがサクヤさんにひどく真面目な顔で訴える。 わたしはさっきから心が落ち着かない程悩んでいるのに、お姉ちゃんってばひどい…。 だけど追い討ちをかけるように、
「ああー? 桂、いくらなんでもそりゃないんじゃないかい? あたしだってこうやって、ちゃーんと用意してるよ?」
そうサクヤさんは言って紙袋を逆さにする。 と、たくさんのチョコレートが転がり落ちてくる。
「…サクヤさんのはお仕事先への義理チョコでしょ…」
「何言ってんだい。 義理用のは別に買ってあるよ。 これは別口さね」
「えっ! じゃあサクヤさんもあげる人いるの!?」
「当たり前じゃないか。 桂こそ本当にあげる人いないのかい?」
「…いないよ。 そんな人、誰も」
わたしがそう言うと二人は揃ってため息をつく。 それって、なんかひどくないですか?
「柚明、よくないよ。 こういうのは」
「…ええ、そうですね。 …でも、こういうことは誰かに言われてすることでもありませんから」
なんだか変な会話のような気がする上に、どうもわたしの事らしい。
「…わたし、誰かにあげなくちゃいけないのかな?」
「…そうじゃないけど……」
「あげなくちゃいけない、わけではないけど、あげる方がいいさね」
「誰に?」
わたしが聞くと、二人は顔を見合わせる。
「そりゃあ…」
「サクヤさん」
言おうとしたサクヤさんをお姉ちゃんが止める。
「桂ちゃん」
わたしを真っ直ぐに見つめ、柚明お姉ちゃんは真剣な顔で言う。
「それをわたし達が言ったら、その時点で意味はないの。 これは義理でも義務でもないから。 桂ちゃんがわからないなら、わたし達は残念だなと思うけど誰にもあげなくていいのよ」
「でも…」
答えどころか、問題すらわかってないようなわたしはもう頭がおかしくなりそうだった。
なんで二人にはあげる人がいるの? どうしてわたしは責められてるの? 二人のチョコレートをあげる程好きな人って誰?
こんな時に誰か相談できたら…例えば………あっ!!
「白花ちゃん…」
忘れていた。 今のわたしを、わたし達を助けてくれた大切な人。 わたしの最も身近な異性、お兄ちゃん。
「…桂ちゃん」
「大切なお兄ちゃんじゃないか。 あげないでいいのかい、桂」
「ううん、ううんっ」
大きく首を振る。 いいわけなんてない。 あげたい、心の底から。
「わ、わたし、チョコ買ってくるっ!」
「あたしの分けてあげようか?」
「ううんっ。 ちゃんと自分で買ってくるっ!」
「…そうかい」
「台所は準備しておくから大丈夫よ、桂ちゃん」
「ありがとう、お姉ちゃんっ」
お財布を持って慌てて駆け出す。
大きなチョコレートを買いながら思う。 あげる人がいないなんてことはない。 誰かに助けられ、誰かに感謝して生きているのだから、あげたい人はいるに決まっている。
わかっていなかった自分を反省して、白花ちゃんの分以外にもチョコレートを買う。
明日渡そう。 白花ちゃんには思いを込めて手作りの大きなチョコを。 そして、わたしの大切な人達にも思いを込めて、感謝して。
ありがとう、柚明お姉ちゃん。 ありがとう、サクヤさん。 ありがとう、陽子ちゃん、お凛さん。 ありがとう、烏月さん、葛ちゃん。 そして…ありがとう、お父さん、お母さん。
槐の香りと共に、このチョコレートを渡そう。
(終)
「ひっ、人違いじゃないですか?」
「わたし、尻尾の出てる知り合いなんて、人違いするほど多くないんだけど?」
「えっ!? 尻尾出てます!?」
「出てないよ」
「……え?」
「尻尾を出したな、葛ちゃん」
「たはは、これは一本とられました」
後ろから抱きしめたまま、葛の首に桂は額をつける。
「ひどいよ、葛ちゃん…」
「桂おねーさん?」
つい先程まで忘れていた、いや忘れさせられていた少女を強く抱きしめる。
「でも思い出せた…もう忘れない、忘れないよ葛ちゃん」
「たはは…桂おねーさんのためだったのですが…」
「嘘だよっ。 …そんなの嘘だよ」
「えっ?」
即座にはっきりと否定され、葛は戸惑い首を後ろに回す。 すると、半泣きの顔が睨んでいた。
「どうして嘘なんですか?」
「それが本当だったら、葛ちゃんを思い出せてこんなに嬉しいわけないもの。 泣きたいくらいに嬉しいわけないものっ」
「桂おねーさん…」
「葛ちゃんだって、忘れたくなかったんだよね? だからここにいるんだよね?」
「…あ…」
葛は戸惑いを隠せなかった。 そう、逢いたかったのだ。
「いいんだよ、葛ちゃん。 わたしも葛ちゃんに逢いたかったよ」
桂の言葉に葛が顔を上げる。 くりくりとした大きなその目には桂同様涙が浮かんでいる。
「だから、だから逢いたい人を忘れさせるなんて、そんなひどい事しないで、葛ちゃんっ」
そう言って桂は笑顔を向ける。 笑顔の端から涙がこぼれる。
「~っ、桂おねーさんっ」
葛もまた涙を流しながら、自分より年上の少女の控えめな胸に正面から抱きついた。
ーーー
お互い真っ赤になった目で向き合う。
「でもですね、本当にわたしに関わると碌な事になりませんよ?」
「葛ちゃん」
「はい?」
「わたしはね、後悔してる事はたくさんあるの。 だからね、わたしはずっとそういうふうに生きてるんだから、後悔するかもしれない予約が今更ひとつぐらい入ったって、全然構わないよ」
「…」
少々呆気にとられた顔で桂を見ていた葛の顔が笑顔へと変わる。
「ふふふ、桂おねーさんには敵いませんね」
並木道で抱き合う二人。 観客はいない、二人だけのステージ。 けれどまだ幕は降りない、ハッピーエンドは未来へのプロローグだから。
「…やっぱり桂おねーさんは心配です。 とてつもなく甘すぎです」
ため息混じりに葛が呟く。
「そうかな?」
「やれやれですねー」
と、またため息をひとつ。 けれどすぐ笑顔になって、
「でもその無用心さが桂おねーさんのいい所なんですよねっ」
と嬉しそうに言った。
ーーー
若杉の頭首のまま、全てを背負って葛は桂と暮らす事を決めた。
誰の反対も許さなかった。
葛は言った。
「何も問題はありません。 結果で示しましょう」
かくして、若杉財閥会長にして鬼切頭、若杉葛は羽島桂と小さな安アパートで暮らし始めた。
ーーー
「ただいまー」
冬も近付き寒さが一段と厳しくなり始めたとある日のこと。
買い物袋を両手に下げて、桂が家に帰ってきた。
「おかえりなさい、桂おねーさん」
奥からかわいい甲高い声が飛んでくる。
「ううー、寒かったー」
「ご苦労様でした」
さっきまで向き合っていたパソコンと書類の束から目を離し、桂を見つめる。
「わたしが言うべき事じゃないかもしれないけど…葛ちゃん、こんの詰めすぎはよくないよ?」
「わかってますよ、桂おねーさん。 気をつけますね」
微笑を浮かべて葛が応える。
「でも桂おねーさんも体には気をつけてくださいね。 リップクリームを塗った方がいいですよ」
言われて舌で唇を舐める。 この寒さでやられたらしい。
「あはは、そうだね。 気をつけます」
そしてお互い笑いあう。
「じゃあ、夕飯の支度するね。 くれぐれも程ほどに」
「はい、わかりました」
ーーー
深夜、声が聞こえた気がして、桂は目を覚ます。
「はい、ご苦労様です。 詳細は彼に伝えておいてください」
「…葛ちゃん?」
窓際、月明かりに照らされて葛が携帯電話を掛けていた。
「…桂おねーさん。 起こしちゃいました?」
体だけ起こして、桂は少し怒り気味に言う。
「起こしちゃいました?じゃないよ、葛ちゃんっ。 そんなに…そんなに頑張らないとダメなの? 葛ちゃんがそんなに頑張らないとわたしとは暮らせないの? こんな時間まで葛ちゃんが起きてなきゃいけないなんて、わたしつらいよっ!」
最後の方は涙声になっていた。
「ねえ、わたしに何か手伝えない? 何でも手伝うから。 だから葛ちゃんあんまり無理しないで…お願いだから…」
黙って聞いていた葛は優しい笑顔を浮かべ桂に近付く。 桂の布団にまたがり膝をつく。 目線はほぼ同じ高さ。
「残念ながら、桂おねーさんに手伝える事は何もありません」
「でもっ」
葛の言葉につい涙がこぼれる。 わかっていた、自分が手伝えるわけが無いと。 でもわかっているからこそつらかった。
「桂おねーさん」
優しい笑顔のまま、葛は桂を正面から見つめる。 しかし、もはや止まらなくなった涙のせいで桂は返事すらできない。
「わたしはつらいと思った事は無いですよ。 幸せですから」
「しあ…わ…せ?」
戸惑う桂に小さく頷いて言葉を続ける。
「だって好きな人と一緒に暮らしているんですから。 これを幸せと言わずに何と言うんですか」
「でも…」
喋ろうとする桂の唇に人差し指が置かれる。
「わたしは桂おねーさんが好きです。 大好きです」
「あ…」
桂の口が小さく動く。
桂の唇の上に置いていた指を離し、桂の耳もとの髪を梳きながら、葛は言葉を紡ぐ。
「その髪が好きです。 さらさらと風に流れるやわらかく美しい髪が好きです」
すでに泣き止んだ桂の涙の跡を拭いながら
「その瞳が好きです。 どこにいてもわたしを見つけてくれる綺麗な瞳が好きです」
首に両手を回し、抱きつきながら
「その声が好きです。 優しく甘い、心を虜にする声が好きです」
そのまま首筋にキスをしながら
「その匂いが好きです。 どんな花も敵わない、甘くとろける匂いが好きです」
「ぅんっ」
胸元にキスをしながら
「その体が好きです。 ぎゅっとしたら折れてしまいそうな繊細で華奢な体が好きです」
「あっ」
「そして…その血が好きです。 連綿と紡がれる運命と力を秘めていながら、誰よりも暖かいその血も…好きです」
そう言って葛はうっとりとした顔を上げる。
「え?」
「桂おねーさんも人の事ばかりは言えませんよ。 リップ塗らなかったんですね?」
「え? え?」
「切れちゃってますよ、く・ち・び・る」
そう言ったかと思うと葛は顔を一気に近づけて、桂の下唇をついばむ。
「ん、んんっ」
次いで上唇を同じようについばむ。 そしてそのままキスをする。
「ぅんん…」
桂の唇を舌でなぞる。 優しく、そして柔らかく。 そしてまたキスをする。
「好きです、桂おねーさん。 誰よりも何よりも」
「…わたしも好きだよ。 葛ちゃん、大好き…」
そして今度は桂の方から葛の唇を求める。
「…ぅん、だから、桂おねーさんのための努力は惜しみません。 例え桂おねーさんを不安にしてもです」
強い目で葛が口にする。
「そうなんだ…」
「ごめんなさいです、桂おねーさん」
「でも、ね」
「?」
ぐっ、と葛を抱き寄せる。
「こんなに体冷えきって…こういう無理をしないで欲しいんだけどな」
抱きしめたまま倒れこむ。
「さあ寝よう、葛ちゃん…」
「ええ、このままで…」
片方の布団は主不在のまま、ひとつ布団で抱き合って二人は眠る。 夢の中まで抱きしめて。
朝が来て、また夜が来て、繰り返す日常が幸せ。
艱難辛苦を乗り越えて、二人を繋ぐ赤い糸。
(終)
ータイトル命名 葉崎紅弥様ー 多謝
「わたし、尻尾の出てる知り合いなんて、人違いするほど多くないんだけど?」
「えっ!? 尻尾出てます!?」
「出てないよ」
「……え?」
「尻尾を出したな、葛ちゃん」
「たはは、これは一本とられました」
後ろから抱きしめたまま、葛の首に桂は額をつける。
「ひどいよ、葛ちゃん…」
「桂おねーさん?」
つい先程まで忘れていた、いや忘れさせられていた少女を強く抱きしめる。
「でも思い出せた…もう忘れない、忘れないよ葛ちゃん」
「たはは…桂おねーさんのためだったのですが…」
「嘘だよっ。 …そんなの嘘だよ」
「えっ?」
即座にはっきりと否定され、葛は戸惑い首を後ろに回す。 すると、半泣きの顔が睨んでいた。
「どうして嘘なんですか?」
「それが本当だったら、葛ちゃんを思い出せてこんなに嬉しいわけないもの。 泣きたいくらいに嬉しいわけないものっ」
「桂おねーさん…」
「葛ちゃんだって、忘れたくなかったんだよね? だからここにいるんだよね?」
「…あ…」
葛は戸惑いを隠せなかった。 そう、逢いたかったのだ。
「いいんだよ、葛ちゃん。 わたしも葛ちゃんに逢いたかったよ」
桂の言葉に葛が顔を上げる。 くりくりとした大きなその目には桂同様涙が浮かんでいる。
「だから、だから逢いたい人を忘れさせるなんて、そんなひどい事しないで、葛ちゃんっ」
そう言って桂は笑顔を向ける。 笑顔の端から涙がこぼれる。
「~っ、桂おねーさんっ」
葛もまた涙を流しながら、自分より年上の少女の控えめな胸に正面から抱きついた。
ーーー
お互い真っ赤になった目で向き合う。
「でもですね、本当にわたしに関わると碌な事になりませんよ?」
「葛ちゃん」
「はい?」
「わたしはね、後悔してる事はたくさんあるの。 だからね、わたしはずっとそういうふうに生きてるんだから、後悔するかもしれない予約が今更ひとつぐらい入ったって、全然構わないよ」
「…」
少々呆気にとられた顔で桂を見ていた葛の顔が笑顔へと変わる。
「ふふふ、桂おねーさんには敵いませんね」
並木道で抱き合う二人。 観客はいない、二人だけのステージ。 けれどまだ幕は降りない、ハッピーエンドは未来へのプロローグだから。
「…やっぱり桂おねーさんは心配です。 とてつもなく甘すぎです」
ため息混じりに葛が呟く。
「そうかな?」
「やれやれですねー」
と、またため息をひとつ。 けれどすぐ笑顔になって、
「でもその無用心さが桂おねーさんのいい所なんですよねっ」
と嬉しそうに言った。
ーーー
若杉の頭首のまま、全てを背負って葛は桂と暮らす事を決めた。
誰の反対も許さなかった。
葛は言った。
「何も問題はありません。 結果で示しましょう」
かくして、若杉財閥会長にして鬼切頭、若杉葛は羽島桂と小さな安アパートで暮らし始めた。
ーーー
「ただいまー」
冬も近付き寒さが一段と厳しくなり始めたとある日のこと。
買い物袋を両手に下げて、桂が家に帰ってきた。
「おかえりなさい、桂おねーさん」
奥からかわいい甲高い声が飛んでくる。
「ううー、寒かったー」
「ご苦労様でした」
さっきまで向き合っていたパソコンと書類の束から目を離し、桂を見つめる。
「わたしが言うべき事じゃないかもしれないけど…葛ちゃん、こんの詰めすぎはよくないよ?」
「わかってますよ、桂おねーさん。 気をつけますね」
微笑を浮かべて葛が応える。
「でも桂おねーさんも体には気をつけてくださいね。 リップクリームを塗った方がいいですよ」
言われて舌で唇を舐める。 この寒さでやられたらしい。
「あはは、そうだね。 気をつけます」
そしてお互い笑いあう。
「じゃあ、夕飯の支度するね。 くれぐれも程ほどに」
「はい、わかりました」
ーーー
深夜、声が聞こえた気がして、桂は目を覚ます。
「はい、ご苦労様です。 詳細は彼に伝えておいてください」
「…葛ちゃん?」
窓際、月明かりに照らされて葛が携帯電話を掛けていた。
「…桂おねーさん。 起こしちゃいました?」
体だけ起こして、桂は少し怒り気味に言う。
「起こしちゃいました?じゃないよ、葛ちゃんっ。 そんなに…そんなに頑張らないとダメなの? 葛ちゃんがそんなに頑張らないとわたしとは暮らせないの? こんな時間まで葛ちゃんが起きてなきゃいけないなんて、わたしつらいよっ!」
最後の方は涙声になっていた。
「ねえ、わたしに何か手伝えない? 何でも手伝うから。 だから葛ちゃんあんまり無理しないで…お願いだから…」
黙って聞いていた葛は優しい笑顔を浮かべ桂に近付く。 桂の布団にまたがり膝をつく。 目線はほぼ同じ高さ。
「残念ながら、桂おねーさんに手伝える事は何もありません」
「でもっ」
葛の言葉につい涙がこぼれる。 わかっていた、自分が手伝えるわけが無いと。 でもわかっているからこそつらかった。
「桂おねーさん」
優しい笑顔のまま、葛は桂を正面から見つめる。 しかし、もはや止まらなくなった涙のせいで桂は返事すらできない。
「わたしはつらいと思った事は無いですよ。 幸せですから」
「しあ…わ…せ?」
戸惑う桂に小さく頷いて言葉を続ける。
「だって好きな人と一緒に暮らしているんですから。 これを幸せと言わずに何と言うんですか」
「でも…」
喋ろうとする桂の唇に人差し指が置かれる。
「わたしは桂おねーさんが好きです。 大好きです」
「あ…」
桂の口が小さく動く。
桂の唇の上に置いていた指を離し、桂の耳もとの髪を梳きながら、葛は言葉を紡ぐ。
「その髪が好きです。 さらさらと風に流れるやわらかく美しい髪が好きです」
すでに泣き止んだ桂の涙の跡を拭いながら
「その瞳が好きです。 どこにいてもわたしを見つけてくれる綺麗な瞳が好きです」
首に両手を回し、抱きつきながら
「その声が好きです。 優しく甘い、心を虜にする声が好きです」
そのまま首筋にキスをしながら
「その匂いが好きです。 どんな花も敵わない、甘くとろける匂いが好きです」
「ぅんっ」
胸元にキスをしながら
「その体が好きです。 ぎゅっとしたら折れてしまいそうな繊細で華奢な体が好きです」
「あっ」
「そして…その血が好きです。 連綿と紡がれる運命と力を秘めていながら、誰よりも暖かいその血も…好きです」
そう言って葛はうっとりとした顔を上げる。
「え?」
「桂おねーさんも人の事ばかりは言えませんよ。 リップ塗らなかったんですね?」
「え? え?」
「切れちゃってますよ、く・ち・び・る」
そう言ったかと思うと葛は顔を一気に近づけて、桂の下唇をついばむ。
「ん、んんっ」
次いで上唇を同じようについばむ。 そしてそのままキスをする。
「ぅんん…」
桂の唇を舌でなぞる。 優しく、そして柔らかく。 そしてまたキスをする。
「好きです、桂おねーさん。 誰よりも何よりも」
「…わたしも好きだよ。 葛ちゃん、大好き…」
そして今度は桂の方から葛の唇を求める。
「…ぅん、だから、桂おねーさんのための努力は惜しみません。 例え桂おねーさんを不安にしてもです」
強い目で葛が口にする。
「そうなんだ…」
「ごめんなさいです、桂おねーさん」
「でも、ね」
「?」
ぐっ、と葛を抱き寄せる。
「こんなに体冷えきって…こういう無理をしないで欲しいんだけどな」
抱きしめたまま倒れこむ。
「さあ寝よう、葛ちゃん…」
「ええ、このままで…」
片方の布団は主不在のまま、ひとつ布団で抱き合って二人は眠る。 夢の中まで抱きしめて。
朝が来て、また夜が来て、繰り返す日常が幸せ。
艱難辛苦を乗り越えて、二人を繋ぐ赤い糸。
(終)
ータイトル命名 葉崎紅弥様ー 多謝
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